『白濱卓哉 後日談』 33

2011-05-13

言い訳がましいので書くつもりではなかったのですが、
だけどやはり言っておきたいので一筆啓上。

3月19日は白濱卓哉がkrushチャンピオンを懸けた、
キック試合の予定日でした。

さかのぼることおよそ1ヶ月前の2月23日のこと。
白濱のお父さんが会社の研修中、
同僚と会話の最中に突然倒れてしまいました。
クモ膜下出血でした。

一時は心肺停止となり救急車で運ばれました。
クモ膜下腔に生じた出血を取り除く手術をしましたが、
とても危ない状態が続きました。

それからというもの、
白濱は看病と指導の慌ただしい毎日となりました。

そして…
家族の必死の看病むなしく、
お父さんはついに亡くなってしまいました。
3月2日の未明のことでした。

しかし、白濱は悲しみに浸ってはいませんでした。
倒れた日の夜から、いつものように練習に来ました。
翌日からは毎日、普段と変わらず指導と自主練をしていました。
試合も一か月を切り、看病に専念したいところだろうに、
白濱もつらいだろうと思っていました。

亡くなった日のことです。
その日は白濱が専任している空手運動コースがありました。
驚いたことに白濱は指導に来てしまいました。
お父さんが亡くなったのに、です。

さすがに私はこの時は、
そこまで頑なに来ないでお父さんのもとにいてほしいと思いました。
お父さんの死を受け止めているのか?と思えるほどでした。

しかし告別式でのお兄さんの挨拶で、
なぜあれほど練習に没頭したのか、心の底から理解できたのでした。

お兄さんはこのように話されました。
「父は自由に生きてきて本望だったと思います。
しかし、ただ一つ心残りなのは、
弟の試合を見ることができなかったことでしょう」

お父さんにチャンピオンベルトをあげたい、
その一心だったのでしょう。
家族の愛情あふれる姿が、この言葉で浮かんでくるようでした。

倒れる日の朝は元気に家を出たのに、
意識が戻ることなく帰らぬ人となってしまいました。
青天の霹靂とはこのことでしょうか。
悲しみはいかばかりかと、身を置き換えるととても悲しくもなります。

亡くなってからお通夜までの間、
お父さんの亡骸をご自宅で引き取っていました。
まだ寒い日でしたが、遺体が傷まぬよう、暖房を入れられません。

実は、白濱は、
その寒さと疲れもあってインフルエンザにかかっていたのでした。
お通夜の日も、道場関係者の話によると、
闇夜に一人、黙々と走り込みをしている白濱を見たそうです。

疲労困憊だったのに勝つために身を賭した白濱。
それだけに、Krushの敗戦が、とても、とても悔しかったのでした。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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※『ひと・もの・こと』は、2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものです。したがって、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

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