『大森曹玄著≪山岡鉄舟≫母の至情の教訓と鉄舟の馬鹿正直』249 日本空手道建武館 篠田剛

2012-04-27

母の至情の教訓と鉄舟の馬鹿正直

鉄舟が八、九歳のとき、母に文字の書き方を習っているうちにたまたま“忠孝”という字があった。鉄舟はその意味を母に問うと母は、いろいろの解釈はあろうが、一応、忠とは主君に仕える心の正しいこと、孝とは父母につかえることであると教えてくれた。幼年の鉄舟には、その意味がよくは理解できなかったが、「母さまよ、母さまはその道をお守りですか。そして私はどのようにしてその道を行なえばよろしいのでしょうか」と、何気なく質問した。

すると母はハラハラと涙を流して、「鉄よ鉄よ、母はその道を心がけてはいるものの、至らぬ女ゆえにまだ完全に行なうことはできません。いつもそれを残念だとおもっています。忠孝の道は、その内容が遠大で、私にもうまく説明はできませんし、聞かせても今のそなたにはわかるまい。そのつもりで一心に修行さえすれば、成人ののちはきっと自然に会得ができましょう。必ず必ず今日のことを忘れてはなりませんぞ」と、懇々とさとしたという。鉄舟は、母のこの「至情の教訓は、此の一席において余が心神に浸み渡れり」といっている。

このときの母の言葉は、彼の生涯を一貫しているのである。海舟は「鉄舟は馬鹿正直ものだ。しかし馬鹿もあれくらいの馬鹿になるとちがうところがあるよ」と評しているが、鉄舟の馬鹿正直さはこの母の親譲りではないだろうか。八、九歳のわが子に「お母さんはその道をお守りですか」と問われてハッと胸をつかれ、思わず涙を流しながら「いつもそう心がけてはいるが、至らぬ女だからまだ完全には守れない」と、告白する母親がいまどきどこにあるだろうか。正直もこのくらいになると、海舟ではないが「馬鹿」がつくといってよい。しかしその馬鹿正直さが、わが子の生涯を支配したことをおもえば、西洋の人々が「揺藍(ゆりかご)を動かす手は、世界を動かす」といった言葉は、まことに真を穿ったものということができる。

鉄舟は、この神官の家に生まれた母の馬鹿正直さをそのまま受けついだ、純情無垢の性格だったのである。彼は晩年―明治二十年頃、当時、滋賀県知事をしていた門人、籠手田安定の請いに応じて『武士道』について講義をしているが、その中で特に「日本女子の武士道」を論じ「女子がいかに真武士道を履行し、いかに日本国の真面目を出来(でか)したかは、歴々として明瞭である」と強調しているのは、この母を想起してのことではなかろうか。ちなみに、この武士道講話には、教育勅語の起案者である井上毅が毎回聴講しており、かつ勅語の前段が鉄舟の講話内容と酷似しているので、その関連性が云々されている。

のち十三歳のとき、父から忠孝は武士の道だと訓えられ、その道を極めるには有形のものとして武道、無形の心は禅を修めることがよいと示され、それを一生かけて実践したことは、本来の純情からであると同時に、さらにその純情正直に精練を加え、ますます光輝あるものにした。
鉄舟の一生は、この父母の教訓を身をもって祖述し、この父母の教訓を、全身心を挙げて“信じ”“好ん”だものというべきであろう。彼は『武土道』を講じたとき、「日本の武士道と云うことは、日本人の服暦践行すべき道という訳である。其の道の淵源を知らんと欲せば無我の境に入り、真理を理解し解悟せよ」といっている。それはいうまでもなく彼の体験の事実であって、単なる空理空論ではない。彼はその無我の道を、剣や禅の修行によって練り上げたのであるが、それは父母の一言を「述べて作らず、信じて古を好む」式に、一生を通じて信奉できたような彼自身の、生れながらの馬鹿正直の純情な性格だったことを物語るものでもあるとおもう。すなわち彼は、生れながらにして無我的な人物だったのである。

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※『空手のこころ』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

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