2011-04-18
その裕貴は研修会時代で活躍し、そして建武館時代でも活躍しました。
つまり寸止めルールも直接打撃ルールも、
マルチにこなす特異な才能の持ち主でした。
入会当初の裕貴は小さくてかわいい幼稚園児でした。
夏合宿の時、
車に酔うというので助手席の私の膝の上にちょこんと乗り、
まるで親子のようでした。
その合宿を境にして裕貴はメキメキ上達してきました。
稽古への集中力や意気込みも、他を圧倒するようになりました。
それからというもの、
地元の板橋大会での優勝を皮切りに、研修会大会でも優勝。
そして連合会の東日本大会で上位入賞し、
全国大会の大阪への切符を手に入れました。
しかし私が研修会会長を辞任したことで、
全国大会出場を断念せざるを得なくなりました。
私を含め周囲も裕貴には相当な期待を寄せていたところでした。
本人も初の全国大会勝利に向けて頑張っていただけに、
可哀そうなことをしました。
辞任して丸1年が過ぎました。
少しずつ直接打撃に慣れ、
“新空手の試合に挑戦!”の雰囲気となりました。
しかし当時のイメージとして新空手の試合は過激であり、
子どもを出すには相当な覚悟を要しました。
どうにかやれそうなのは裕貴以外にいない。
しかしそんな過激な試合に他人の子だけ託していいのか?
そこで白羽の矢が立ったのが私の長男、拓海でした。
今、考えてみれば可哀そうな話でしたが。
このようにして裕貴と拓海が、
新空手への勇気ある初挑戦をしたのでした。
それから2年が経ち、裕貴は初段を受審します。
全身全霊で体力をすべて出し切り、
最後はくたくたによろける程の組手を披露しました。
結果は満場一致で、
裕貴は新生建武館での栄えある少年部黒帯第一号となったのでした。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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