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おれの半生

『じくじたるもの』1 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2010-09-29

私の幼い頃のお話をします。

みなさんご存知の孔子は論語の中で、
「義を見てせざるは勇なきなり」
と言っています。

『人間として当然しなければならないことを目の前にして、それをしないのは勇気がないというものだ。それが正しいと思ったら、ためらうことなくやりなさい。』

ということでしょうか。

勇気は正義のために使われるものであって、つまり、勇気とは正義を行うことなのだと言えます。

そこで思い起こすのが平成19年東武東上線ときわ台駅で、線路内に入った女性を助けようとして電車にはねられて殉職した宮本邦彦警部のとった行動です。

こういう行動を
「凄い…」
と身震いするほど感銘するのは、私の父の教育が根底にあったからだと思います。父からの教えは「自己犠牲の精神」が多かったと記憶しています。よく思い出すのが

  いいか剛…
  人に迷惑をかけるなよ
  損得なんて考えるな
  人情を持て
  弱い人には味方しろ
  正義を貫く心の強さを持


と熱っぽく語ってくれたことです。そして、強いだけでなく優しさや思い遣りがなければだめだと諭されました。

とはいえ幼い頃の私は引っ込み思案で気が弱く、人を助けたくても助けられずいつも内心は忸怩たるものがありました。

2010-09-29

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『そして稽古が始まったのです』2 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2010-09-30

父の事業がまだ順調だった頃。
その会社に中国拳法を体得していた方が在職されていました。

そして、
近所には血気盛んな青年がたくさんいて、体力をもてあましておりました。

そこで父は、
その方にお願いして、青年達に拳法を習わせることにしました。
腕力を正拳に換えて、
暴発するエネルギーを道場で吐き出させようとしたのだと思います。

それに、今思うに、
引っ込み思案で気が弱く、意気地のない息子を強い男にさせたい、
そんな願いも頭の片隅にあったのかもしれません。

いかつい顔の青年が集まりました。
そして「建武館」の稽古が始まったのです。

とはいっても道場などありません。
はじまりは2階建ての自宅屋上。

夏はかんかん照り付けて脳天はジリジリ、
冬は寒風が吹きすさび縮み上がって震えながらの稽古でした。
ときには神社の敷地内をお借りしたりもして、人が集まれる場所が即席の道場となりました。

稽古とは名ばかり。
血気盛んな人たちゆえ、初めはケンカの延長線のようでした。
いい思い出です。
昭和45年のことでした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので宜しければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『辛抱が成就する』3 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2010-10-01

小学1年生から拳法を習い始めた私は、少しずつ気持ちが強くなっていきました。

しかし、父の教えが身についてきたのは年月が経ってからで、それまではケンカのし放題。
習いたての頃は、ただケンカに強くなりたかった気持ちの方が強く、
もし中途半端に辞めていたら、拳法(のちの空手)が単なる暴力、ケンカの道具で終わっていたかもしれません。

幸いにも中途で挫折せずに続けたお陰で心と体が鍛えられ、
何事も恐れず自分の信念も曲げずに振舞う行動力と精神力が備わり始めました。

そのうえ、この自信から「義を見てせざる」だったものが、
やるべき時にやれるようになってきました。

そこでわかったことは、
小さい頃から親が強さと優しさ、つまり、
正しいことは自分が損をしても行え、弱い人の味方になれ、
などを教え込むことが大事だということです。

そしてまた、つらい事でも長い間辛抱して続けていけば成就し、
強く優しく正しい人になれるということがわかったのです。

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『便所を素手で磨く』4 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2010-10-23

掃除で誰もが一番やりたがらない場所がトイレ。
そのトイレを人間教育の場に使ったのが私の父でした。

父は合宿所のくみ取り式便所に我々子ども達を呼び集め、
何とあろうことか、
おもむろに手を伸ばし汚い便器を素手でこすり始めたのでした。

トイレの素手磨き修業のはじまりです。

大便の方が大変そうに思うでしょうが、
実は小便器のほうが始末に負えません。
小便はアンモニアがバクテリアで分解されたためか臭いが強烈で鼻につき、
また、尿石がこびりついてなかなか取れません。

父はその尿石や、乾燥して固まった糞を
指の爪でコリコリとほじくり始めました。

私たちはびっくり仰天。
目と目が合うと、のぞき込んでその指先に注目しました。
当然ながら父の爪の間に尿石やら糞やらが次第に詰まっていきました。

そんなことはお構いなしに父は平然とコリコリを続けていたのです。

ある程度の模範を示したあとに、
さあ、こんな感じだぞと言わんばかりに我々を見て、
手磨きを始めるよう促したのでした。

なぜトイレの素手磨きをさせたのか。
父からはその想いを聞く前に他界しましたのでわかりません。

しかしその体験で得たものは多く、
その良き伝統は今も受け継がれています。

2010-10-23

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『オシッコがドバーッ』5 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2010-11-05

幼少の頃の私は、ものすごく恥ずかしがり屋でした。

保育園の年長さんのときの話です。
ある日私はトイレに行きたくて行きたくてしかたありませんでした。

「先生、トイレ!」

この一言が言えないのです。
声を出せばみんなが私の顔を見て注目するかもしれない。
とてもじゃないが、そんな恥ずかしいこと言えない。

あの小さなイスに座りながらモジモジ。
先生の話なんか聞いていられません。

案の定、イスの上で、

シャー…。

下にオシッコが垂れたら周りの友達にバレてしまう。
そうっと立ち上がっては何気なくハンカチでイスに溜まったオシッコを拭くのでした。
何度も…。

パンツの中はオシッコでパンパン。
家への帰り道は股を広げてのそりのそりと歩きました。
やっとの思いで帰宅して、廊下でズボンとパンツを一緒に下げると、
自分でもびっくりするほどオシッコがドバーッ。

そんな保育園の頃の私でした。

2010-11-05

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『拳法から空手へ そして新しい母』 6

恥ずかしがり屋の幼少時代。

引っ込み思案でいつも目立たぬようにしていました。
自分を素直にアピールする友達を、
でしゃばり者、と嘲笑と羨ましさとが綯い交ぜになって見ていました。

決して明朗でなかった私を変えさせたい、
そんな願いも一片にあったのでしょう。
父が拳法の先生を招いて私達に習わせたのです。

その前か後か、記憶が定かではありませんが、父は離婚しました。
私の性格は、そんな家庭事情からつくり出されていたのかもしれません。

それから1年。

ある人からのつながりで、啓心会という空手道場のお世話になることになりました。
試合もここの会が主催する大会に出場できるようになりました。

その啓心会から少年部初段を頂き、
翌1972年の啓心会全国大会で型の部で初優勝しました。
兄は私よりはるかに強く、その時も優勝していたと思います。
兄弟ダブル優勝は何度もありました。

勝つことの喜びを覚え、翌年も優勝。
その後も、隔年で優勝しています。
1975年は組手の部でも優勝しました。

しかしその間、家庭では心揺れる出来事がありました。
2番目の母親との唐突な対面です。

それは小学校3年生ごろの夏合宿のとき。
船着場での稽古中、遠くの電信柱の陰からある女性が稽古を見ていました。
誰だろう?と思いつつ稽古が終わって合宿所に戻ると、
その女性はもうそこにいたのです。

父に呼ばれて女性の前に座ります。父は、

お前のお母さんになる人だ。

そんな感じだったと思います。あまりにあっけなかったですね、母親との出会いは。
 

2010-11-06

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『負けん気 兄弟げんかで培う』 7

父は若い頃にボクシングをやっていたようです。
30~40代の頃も、歳のわりに足が速く体も柔軟でした。

そんな血筋か、私たち兄弟も上達が早かった。
1973年、10歳のときに日本空手道道場連合の伊志嶺玄朝先生より
少年部初段を頂きました。

その上達が兄弟げんかにも現れてきました。

男兄弟にけんかはつきものです。
私たちも世間一般の兄弟げんかをよくしました。
私は生意気で従順じゃなかったですから。
今も変わらずですが!

ただ世間一般と少し違うのはけんかのしかた。
プロレス技とか、髪の毛の引っ張り合いなんて可愛いものじゃなく
突き蹴りでした。

兄のパンチは正確無比で、必ず鼻に当たります。
鼻血ブーは毎日。

おかげで、顔を殴られても怯まなくなりました。
だいたい世間一般の弟はやられ役なので自然と根性がつきます。
やられるたびに強くなっていきます。

次第に、こんちくしょう、上等じゃねえか、負けてたまるか!
という負けじ魂が備わってきます。

この負けじ魂には良い悪いがあります。
悪い負けじ魂は困りものです。
負けたくないからと、負けそうだなと思うことはしません。
勝つ勝負しかしなくなります。

一方、良い負けじ魂は負けたくないから、負けないよう努力します。
努力して勝とうとします。
努力から逃げません。
弱い者ばかりを相手に勝ち誇ったところで何も腕前は上がらないでしょう。

自分の居心地のよい世界で威張っていても、
ひとたび外に出れば何も通用しない人になってしまいます。
痛い目に遭ったり、恥をかいたり、
そのたびにこんちくしょう、上等じゃねえか、負けてたまるか!が活きてくるのです。

世間一般の弟よ!
お兄さんに感謝しなさい。

2010-11-07

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『親父の悔恨』 8

父が再婚し、二番目の母との生活が始まりました。

私はどうしてもお母さんとは呼べませんでした。小学3年生の私は20歳の女性にどうしても母性を感じることはできなかったのです。

父は普段から仕事の付き合いで外出し、家にはいない人でした。母親は元々酒が好きで飲んでいましたが、子どもがなつかない寂しさが加わり、更に荒んできました。

自宅で会社の方と夜遅くまで飲むときは、酒が深まると母親は大声になりいざこざが起こります。一度、朝方にパトカーが来て登校するときとても恥ずかしい思いをしました。

酒が入っていない時は、母親は私を池袋の繁華街、よくロサ会館のゲームセンターに遊びに連れて行きました。ゲームに飽きると私は一人、隣にある大人のオモチャ屋にぶらぶら立ち寄るのです。

そんな家庭環境にいる私達を、父はどう思ったのでしょうか。おそらく、このままではろくな男にならないのではないか。親として痛切に責任を感じたろうと思います。

それからというもの、父は時間があれば私を連れ出すようになりました。

サウナによく行きました。父は蒸し風呂に20~30分入り、出る前に拳立てと腹筋を50回やります。そして水風呂にザブンと入ります。それを2、3度繰り返します。背中の流し方も教わりました。

映画にも行きました。当時流行っていたトラック野郎とかよく覚えています。

飲む席にも連れて行きます。カラオケは人生劇場など村田英雄が多く、小学生なのに歌えるようになりました。

男とはなんぞや?の精神を、もの凄い勢いで叩き込み始めたのです。
まるで出遅れを取り戻すかのように。

建武館 篠田剛

2010-11-08

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※この『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『親父といるだけで』 9

父は仕事関係をはじめ、地域、空手、政界、警察と、様々な人脈との交流があり、家にいる暇もありませんでした。その間の教育は、もっぱら再婚相手の若い母親に委ねられました。

しかしその母親からは、教育と言えるものを受けることはありませんでした。母性が足りないのが原因かわかりませんが、私達兄弟は心が不安定な子どもになっていました。父はそんな私達の生活態度を見て、はっと我に返ったのかもしれません。

それからというもの、心が荒みかけた私達に、父は時間を割いて接するようになります。そんな大げさなことでなく、日常の些細なことですが、それがまた嬉しかったのです。

ジョニーウォーカー黒ラベル、通称ジョニ黒。この四角いウイスキーの空瓶はいつも父の座椅子の後ろにあります。父は時間があればそれを片手に、脛と、そして握りこぶしを作って正拳をコツコツ叩いて鍛えていました。

私が家にいると、

 剛、ちょっと来い。

と、呼んで私の右手を取りこぶしを握らせ、瓶で正拳をコツコツと叩き始めるのです。次に左手、そして脛。始めは軽く、熱を帯びて痛みが麻痺すると徐々に強く打ちます。

二人とも無言。静寂な中で、コツコツという音だけが響きます。特に何も話すわけではないのですが、ただそれだけで、父といるだけで嬉しくて、心が休まる気持ちになりました。

建武館 篠田剛

2010-11-09

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『ガマンを受け継ぐ』 10

当時、高級ウイスキーだったジョニ黒。その空瓶を父はいつも居間の座椅子の後ろに置いていました。時間があればそれでコツコツと脛やこぶしを叩いて鍛えていました。

私が一人ぼっちでいると、たいてい父は声をかけてくれます。そして、左手で私のこぶしを握り、右手で瓶をコツ、コツ、同じリズムで打ち続けるのでした。

脛の場合は膝下から足首までちょっとずつ下にずらしながら打ちます。山脈で例えれば頂き部分をたたき、続けて内側の斜面の部分に移ります。脛は場所によって痛さが異なります。特に、膝下と足首の部分はまるで違います。膝下はキンという痛さ、足首は抜けるような鈍い痛さです。

父は、「この部分がちょっと痛いだろう?」
私は、「全然(痛くない)」

すると父は少し嬉しそうな顔をします。会話があるとしたらその程度のやりとりです。とても少ない会話の中で、子供心に何となく、ガマンすることの大切さが感じられました。

父はときたま強めに叩いたりします。一瞬、私は目を見開き眉を上げてしまいます。
そういう時は必ず、「痛いか?」
すぐに涼しい顔に戻して、「全然」

この答えが何とも嬉しそうなんです。父は。

ある日、巻き藁という鍛錬具でこぶしを鍛えていると、大拳頭という当てる部分がこすれて皮がペロッと剥けてしまいました。皮がむけるほど頑張ったんだ、と父にこぶしを見せると、父はふ~ん、という感じでヨーチンを持ってきて傷口に塗るのでした。

ヨーチンは赤褐色の殺菌・消毒する劇薬液です。今の消毒スプレーと違い、塗ると、体じゅうの筋肉をギューッと固めないと堪えきれないくらい沁みるものです。

ペロッと剥けて血でにじんだ湿っぽい肌にヨーチンを塗ると、血が噴き出したように見えてギョッとします。だけど、痛がると父の思う壺。体はカチンカチンに固まりながら、せめて顔つきだけは平静を装います。

父子でそんな他愛もない意地の張り合いをしながら、だんだんとガマンの大切さを受け継いでいったのでした。

建武館 篠田剛

2010-11-10

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『慙愧と決意』 11

小学3年生頃までは、父との交わりのなかった生活を送っていました。子供っぽさがなくなり、明るさを失いつつありました。それに気づいたのであろう。父はつとめて私と触れ合ってくれました。良い点を見つけては褒めてくれました。徐々に明るさを取り戻しつつあったのでした。

父に触れて男らしさについて意識し始めたのもこの頃だったと思います。ただ、それはまだ表面的なもので、芯から男らしい態度行動をとれるようになるのはまだまだ先のことでした。

小学6年生から中学1年生にかけて小さな反抗期を迎えます。友達優先となり、単に友達がいるからという動機で、塾に通ったり、部活に入ったりします。

空手から距離を置き始めたのです。

そしてちょうどその頃。
今でも悔やみ、人に言うのも恥ずかしいことをします。それは同級生へのイジメです。

イジメは一部の男子から始まったと記憶します。足の一部に火傷を負った女子を誹謗したのです。徐々に広まる雰囲気の中で、私はそれを阻止することができず、加担さえしてしまいました。

当時、彼女はあれほどクラスからいじめられていたのに一度も学校を休まず、泣かず、耐えていました。何年か経ち、クラス会で久しぶりに再会した彼女は、見違えるほど凛としていました。

果たして自分なら乗り越えられたろうか。慙愧に堪えぬ思いとともに、その芯の強さに敬服しました。

私は、二度と繰り返さぬよう決意しました。男らしく振る舞い、弱い者いじめをしないと。大勢で寄ってたかって一人を責めないと。

思い出したくない暗い過去は誰にでも一つ二つあるはずです。俺は何であんなことしてしまったんだ。思い出すたびに自分が情けなくなります。

しかし、こういう言葉を聞いて救われる思いがしました。それは、
過去は思い出さなければ存在しない、しかし隠しているわけではない。
という言葉です。

自分は過去の失敗を隠している悪い人間だと思えば、自分に自信が持てなくなります。引き出せば思い出すが、隠しているわけでも開き直ってのほほんとしているわけでもないのです。

これからは男らしく生きて行こう。
そう決意するきっかけにさせてもらったのでした。

建武館 篠田剛

2010-11-11

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『立ち食いうどんの罠』 12

空手以外のことをしよう。
ならば球技だ。

小学6年生のときポートボールが上手かったという理由で、中学生になるとバスケ部に入りました。しかし長続きせず、今度は友達がいるからという理由で野球部に入ります。

空手から距離を置いたのです。

1977年のある日曜日、偶然にも私の中学校で空手の試合と野球部の練習が重なりました。私は空手を選んでいました。グラウンドに目をやれば野球部の仲間がいました。

浮ついた気持ちのまま試合をするも、型の部で優勝します。これでいいのか、という気持ちにもなりました。

しかしながら野球部に身をおいても、上手くなろう、レギュラーになろう、という向上心は湧いてきませんでした。そのあとも、何となく日が暮れるまで部活をし、塾に通うという日々を過ごしていました。

そんなある日、父が私を出稽古に誘いました。板橋の高島平にある啓心会の道場です。

空手から離れようとしている私は、はじめ気が乗りませんでした。しかし、出稽古というのも初めてだし、ここ最近、父との接点もなかったことだし、一回くらいは行ってもいいかな、と思いました。

もともと父のことは好きだし、二人で行動するのも内心は嬉しかったのだと思います。それを素直に態度や言葉に出すのは中学生にもなって恥ずかしいと思っていたのかもしれません。だから、しかたない、という感じで了承したのでした。

出稽古は始めての経験でした。やはり緊張感が違います。人も違えば作法も違います。自分以外はみな敵に見えるのです。

稽古が終わり、道場の近くにある立ち食いうどん屋に父と二人で入りました。カウンターだけの小さなお店だったと記憶します。緊張から解放された安堵感と、久しぶり父との食事。これが相俟って、すごく美味しく感じられました。

何日かして、父からまた出稽古に誘われました。

うどん食べさせてくれるなら行ってもいい…。これが私の返事でした。
中学生にもなって、何とも子供っぽいことか。

だけど、ここらへんの誘い方というか持っていき方というか、絶妙なタイミング。父はうまかったですね。
少しずつですが、空手に対しての想いが、また湧いてき始めたのでした。

建武館 篠田剛

2010-11-12

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『再燃』 13

立ち食いうどんの罠にまんまとはめられて、私は何度か出稽古に行きました。

初めて味わう緊張感、そしてプライド。心の中で何かしら動いたのでしょう。空手に対する想いが少し上向き始めました。

父は矢継ぎ早に、今度は横浜の大会に出てみないかと言い出しました。自転車もはじめは重たくて大変ですが、動き始めるとペダルは軽くなる。遠征は初めてで不安です。しかし何となく心はやってみようと思うのでした。

そこは、横浜のとある木造の道場だったと記憶しています。敷地内に道場が二つ入り組んだ構造でした。そこで種目別に分かれて試合をします。私は組手の部に出場し、決勝まで駒を進めることができました。

決勝戦の相手はすでにわかっています。その相手が私の目の前を通りました。当時の私は小柄でした。相手はもの凄く大きく、私が片手を上に伸ばし、背伸びをしても届かないほどでした。

遠くにいる父に、俺の相手はあいつだ、こんなにでかい…。と、片手を上に伸ばしてゼスチャーしました。すると父はニコッと笑い返したのです。

相手が強ければ強いほど燃え上がる。

これまで父が、態度行動で教え込んだ男としてのカッコよさ。私にも何となく身についてきて、そのニコッで父の心が読めたのでした。

結果は接戦の末、前蹴りを取られて敗退し準優勝。やや誤審のところもあり実際に相手の蹴りを受け払っていました。私は、ちゃんと受けた、というジェスチャーをとって審判員にアピールしていました。

普段はそんなことしない私が、勝つことの執着心というか、久々に燃えて、そんな行動をとってしまったのでしょう。

この準優勝は、空手再燃のターニングポイントとなりました。

建武館 篠田剛

2010-11-13

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『木刀で留守番』 14

何年生だったか、小学生の時、独り留守番することになりました。

自宅屋上のプレハブ道場にお化けが出たとか楽しんでいる時はいいが、いざ一人となると自宅とはいえ薄気味悪いものです。まさか空手道場の家ですので泥棒は入らないでしょうが、父としても一人残すのは少し不安だったのでしょう。

そこで私に秘伝を授けます。

  剛、これを抱いて寝れば怖くない
  俺も小さい頃おじいちゃんに教わったんだ

そう言って、一本の短い木刀を渡してくれました。

家の人たちが出払って、いよいよ独りぼっちになりました。私は父の言う通り、短い木刀をお腹の上に縦に置いて、両手に抱いて眠るのでした。

薄暗い部屋で、なぜか以前映画で観た幽霊を思い出してしまい、背筋がピンと硬直してビビッてしまいました。

しかしいつもとは違い、その時は、この木刀とともに父の顔が目に浮かび、幽霊を吹き飛ばしてくれたのでした。

それからは、独りぼっちの時は木刀を抱いて眠れば怖くない。

そんな自信がつくようになりました。

少し大きくなって中学、高校の時、独り試験勉強をしなければならなくなった時でも-もちろん木刀を持たなくても- 独りぼっちは苦痛でなく平気でいられるようになりました。

大人になった今もこれから先も、世の中どうなるかわかりません。孤立無援ということが起こらないとは限りません。
しかし、この留守番体験はきっと活かされると思います。

残業で、深夜に帰宅しての“孤食”は、耐え難いものがありますが…。

建武館 篠田剛

2010-11-14

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『転機の日』 15

中学3年の時。
父が、私に会わせる人がいると言うのです。

約束の日。
自宅の和室、祖父が生前使っていた部屋でのことです。そこには父と、小柄な男性がいらしてました。私は緊張の面持ちで入るのでした。

その方の名は金城裕先生。

この時、私はこの方がどれだけ空手の大家なのかわかりませんでした。
少し前に父から、

 立ち話をする時も真正面に立たないんだ。
 少し斜向かいに立つんだ。
 心構えの面で、目前の人が急襲しても対処できるためだろう。
 日常でも心の用心を怠らない凄い人だ、と。

そう、人物紹介されたのは覚えています。父がこのように賛嘆して語るのは珍しい。
さらに「俺の親父みたいな方だ」と言うのです。

私からすると親父の親父はずっと上の人。
それだけでとても身の引き締まる思いでした。

この面談で金城先生より直々に、高校1年の9月より週2日、ご指導を仰ぐことが決まりました。

先生のご自宅は平塚市にあります。電車やバスを乗り継いで片道2時間かけて来られます。それも、私一人だけのために。空手家垂涎の的。とてつもなく贅沢で誇らしげなマンツーマン指導が始まるのです。

建武館 篠田剛

2010-11-18

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『個人指導始まる』 16

高1の夏休み明け。
金城裕先生直々のマンツーマン指導が始まりました。

これほど名誉なことはありません。今、考えれば先生を独り占めできたことに感謝しています。金城先生から教えていただいた技と心は今も財産となっています。

筋肉の微細な使い方。頭のてっぺんから足のつま先まで神経を集中させながら動かなければなりません。はじめは形を真似るだけでも汗が吹き出ました。

稽古が終わるたびに兄の元に行き、
「握りこぶしは親指を人差し指にギュッと押し付けて握るんだ」
とか、その日に習った新しい技を、誇らしげに興奮気味に報告するのでした。

鍛眼法という独特な稽古法があります。
握りこぶしの代わりに手のひらで互いに額を狙って攻防します。

もちろん初心者の私はまるで歯が立ちません。当たり前のことです。しかし、私が稽古を積み20代前半の最も俊敏に体が動く時期でさえ、先生の額に触れることはできませんでした。

すべて軽くいなされてしまうのです。

先生は1919(大正8)年生まれですので私が20代前半ということは、先生は当時65~70歳でした。

よく、テレビなどで、どこかの大先生のエイッ!という掛け声で、弟子達がたちどころにウワッと倒されるシーンを見かけては嘘くさいと思うことがありますね。

何と言っても金城先生の凄さは理屈でなく実践で証明するところです。実際に先生と稽古しなければ信じがたいことでしょうが。

果たして私が70歳になっても、20代のイケイケの青年に一つも額に触れさせることなく応戦できるでしょうか。先生の若かりし頃、どれだけ強かったか。どれだけ厳しい稽古を積んできたか。

想像を絶するところです。

建武館 篠田剛

2010-11-19

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『単調な稽古でガマン』 17

金城先生のご指導の大半は基本稽古で占められていました。残りの時間は鍛眼法と型だけです。組手は一度も教わったことはありませんでした。

その場基本をみっちりやったあと移動基本に移ります。一つの技を道場の端から端までを2往復します。基本技はたくさん種類がありますので何往復も何往復も単調な技が延々と続くのです。

ただし基本稽古は対人で行いませんので気を抜いてやればこれほど楽な稽古はありません。しかしながらそこを自分を律して気を抜かずにやるとなるとこれほど辛いものはありません。そこにガマンの心が生まれます。

だからこそ、そのおかげで今があるのです。

単調な基本をずっと教えていただいておかげでこの歳になっても動けるのです。

私が指導者となった今、わかることですが、教わる側とすれば単調な基本ばかり毎日の繰り返しはとても飽きます。しかし教える側としても、飽きる基本をやらせ続けることはとてもつらいものです。飽きさせないようどうしてもバラエティに富んだメニューを用意してしまいます。

教える側も教わる側も、飽きてしまうものを飽きずに飽かさずにガマンするさせることが肝心なんだと、今になってわかるのです。わかった上でブレずに指導し続けるのがいかに困難なことか。

バラエティに富んだメニューという枝葉末節ばかりを重視して基本を疎かにしていたら幹は太くならず、今頃私は理論しか言えない先生になっていたかもしれません。

だから、教える側は、相当な覚悟をもって道場生に、子どもに向き合う姿勢が必要なのです。

そう教わった気がします。

建武館 篠田剛

2010-11-20

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『心遣いを教わる』 18

私が金城裕先生から教わったのはもちろん空手ですが、日常の立ち居振る舞いも見習いました。

地方の審査会などによく先生のお供をさせていただくことがあります。いわゆる鞄持ちです。
審査の合間に食事などで雑談をします。その時の何気ない会話の中にいくつも教わるものがあります。

たとえば電車の切符を買うとき列に並んでいる間に小銭を用意する。自分の番になって財布を取り出しては時間がかかり後列の人に迷惑がかかるからという配慮です。

何気ない行動にも教わるものがありました。

喫茶店でティッシュを足元に落としましたが拾おうとはしません。気づかなかったのかなと思ったら、帰り際にそっと何気なく拾ってテーブルに置きました。

床に落ちた汚いものを途中でテーブルに置かない配慮だと思います。

他人への心遣いの大切さを、金城先生の日頃の何気ない言動から見出しました。
父が私に「親父みたいな方」と言った時から私は畏敬の念を持ったのでした。

建武館 篠田剛

2010-11-21

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『パンチパーマの清掃活動』 19

自宅の鍵は掛けたことなどありませんでした。
誰もがいつでも出入りできました。少し変わった家です。私が学校から帰ると、家にいるのは兄の友達でした。まるで我が家のように勝手に上り込み、お菓子を食べながらテレビを見てくつろいでいます。

家の者よりも早く部屋にいる友達。それがごく当たり前の光景だったのです。私の友達も来るようになると、兄の友達を含め、毎日10人ぐらいはいつもいました。

高校生になるとバイクで来ます。兄の友達は自動車です。自宅前のガードレール沿いにはバイクと車がズラリと並びます。路上ではプカプカ煙草を吸い、周辺住民からすればまるで暴走族の集会所のようでした。

父の若かりし頃は暴れん坊でした。不良の気持ちがよくわかります。ですのでツッパリと呼ばれる若者の心を惹きつけるものを持っていました。

父の教育は非常識です。小学6年生の時、宴会の席でコップ酒を勧めるのです。私は調子に乗ってグイッと一気に飲み干しました。

そして中1になると今度は煙草です。箱から1本出して「吸うか?」というのです。さすがに煙草は、イイヨ!と断りましたが。もう少し大きくなったらキャバレーに連れて行ってやるからとも言ってました。

こんな父ですので、路上の煙草プカプカなど注意しません。
そのかわり。
人様に迷惑を掛けるな、と徹底して教えます。

兄の友達にコマッチャンと呼ばれる人がいます。父のお気に入りの人でした。私もその人によく遊んでもらい、影響を受けた人です。

コマッチャンは父の言葉を守り、帰る前は必ず吸殻を拾いました。それにつられて周りの友達も一緒に拾うようになりました。

パンチパーマのコワモテのお兄さん達が帰り際に清掃活動をします。
不健全と健全の、とてもアンバランスな光景が毎日繰りひろげられたのでした。

ちなみに当時コマッチャンは煙草は吸ってなかったですね。念の為。

建武館 篠田剛

2010-11-22

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『離婚』 20

中学3年の時、若い継母は父と離婚し、家を出ていくことになりました。
身支度を終えると私に、

じゃあね…

いろいろ複雑な思い出が、おたがいにありました。
いろいろな言葉もあったでしょうが、全ての感情を、じゃあねの四文字に押し込めて、去って行ったのでした。

自宅の2階で別れを告げられた私は、玄関まで見送ることもなく、その場に一人残るのでした。

結婚離婚を繰り返す家庭環境ではふつう子供はヒネクレ者になるでしょう。私が幸せだったのは、父が愛情込めて育ててくれたことです。一人の男として接してくれたことです。

父は良い点を認めてくれました。
悪い点については、正反対の言葉に換えて言ってくれました。
ボクはそういうこと出来ない子だと思ったけど、もしかしたら出来る子なのかな。

父のこのような温かい接し方のおかげで今の自分があるのだと思います。

家族の愛情とはなんだろう。
その時は真剣に考えることもありませんでした。

私は必ず、父性だけで育ったために母性が足りない片端な人間になると思っていました。
それだけに、いつか生まれるだろう自分の子供にはそうはさせまいと心に誓うのでした。

建武館 篠田剛

2010-11-24

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『自戒をこめて』 21

ドロシー・ロー・ノルトというアメリカの家庭教育学者の作った「子ども」という詩です。
2005年2月、皇太子殿下が誕生日の記者会見で朗読されて広く知るところとなりました。

 

批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる

殴られて大きくなった子どもは 力にたよることをおぼえる

笑いものにされた子どもは ものを言わずにいることをおぼえる

皮肉にさらされた子どもは 鈍い良心のもちぬしとなる

しかし,

激励をうけた子どもは 自信をおぼえる

寛容にであった子どもは 忍耐をおぼえる

賞賛をうけた子どもは 評価することをおぼえる

フェアプレーを経験した子どもは 公正をおぼえる

友情を知る子どもは、親切をおぼえる

安心を経験した子どもは 信頼をおぼえる

可愛がられ抱きしめられた子どもは 世界中の愛情を感じとることをおぼえる

 

幼い頃に、いかに親に愛され信頼されることが大切かがわかります。
子を持つ親として自分への戒めを込めて書きました。

建武館 篠田剛

2010-11-25

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『血気盛ん』 22

中学時代はあまりケンカはしませんでした。
ただ友達が、言いがかりをつけられて絡まれた時は身を挺することはありました。しかし、小柄で童顔な私は、なめられることがよくあり、悔しい思いをしたものです。

高校に入ると金城裕先生から本格的に空手を教わり始めました。身長が伸びたのもこの時期です。成長期と相まって、腕力がグンとついてきました。

力がついてくると自分の信念を曲げぬ精神力が根付いてきます。私が幸運なのはその信念は正義に基づけと父から教わったことです。空手を正義の振る舞いに使えと。

…そうは言っても、まだ血気盛んな高校生。いろいろケンカもしましたね。

建武館 篠田剛

2010-11-26

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『破邪顕正』 23

血気盛んな高校時代、ケンカもしばしばでした。

ケンカを自慢したり誇らしげに語りませんが、しかし、男として卑怯なまねはしなかったという事実はあります。
自分より小さい者、弱い者を相手にしたり、集団で一人をいじめたり、武器を持ってやったり、そういう、勝って何が威張れるの?という行為や、理由のないケンカはしませんでした。

義憤を覚えて燃えることはよくありました。
ここで逃げたら男が廃る、という場面では意地でも踏ん張りましたね。

しかし、まぁ今思えばやはり血気盛んな年頃でした。

自分を通す、ということ。
自分とはつまり破邪顕正を貫くということでした。

この教えは祖父から父へと受け継がれたものです。
私たち兄弟は幼少より、祖父が書した墨痕鮮やかなこの四文字の額をいつも眺めながら育ちました。

幼児虐待やホームレス集団暴行など、胸糞が悪くなる事件が後を絶ちません。
この世の中、どうにかしなきゃいかん。ニュースを聞くたびにそう思います。

建武館 篠田剛

2010-11-27

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『度量』 24

2010-12-02

度量の大きさ、包容力。どれも親父はずば抜けていました。
とても懐の深かった男でした。

高校時代、兄弟の友人が道場に大勢集まり、クリスマスパーティだといってドンチャン騒ぎ。当時ディスコが流行っていてみんな踊っていました。カラーフィルムを貼った手製の照明まで作って。

結構夜遅くまで遊んでましたね。
今、考えると道場でよくやったもんだと思いますが…。
周り近所もそうとううるさかったでしょう。

もし私が親の立場だったら…。
時計をチラチラ見ながらしびれを切らし、上り込んで
「いい加減にしろよ」
と言ってしまうかもしれません。

しかし親父は止めなかった。
なぜだろう。

放任主義で無責任だったわけではないと思います。
常軌を逸したり男として恥ずべき行為をしてしまえば一喝したでしょうから。

親父はまず、何よりも私たちを信じてくれたのだと思います。
我々がどんなやんちゃなことをしても、
ある一線を越えるようなバカなまねはしないと信じてくれていたのだと思います。

一線を越えるまでは目をつぶり、
しかし、何かあったら自分が頭を下げて謝りに回ればいい。
若いうちしかできないんだから。
そんな感じだったと思うのです。

親に信頼されている。
愛されている。
子どもにとってこれほど心を安らかにさせてくれるものはありません。
だからこそ、逆に、曲がったことなどできやしないのです。

もっと良い子育ての方法は確かにあります。
しかし、世間体を気にしてちっちゃなことに目くじらを立てる親が多い中で、
とても異色な人だったといえるでしょう。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『慎みと辛抱と』 25

2010-12-03

食事、服装。
ともに親父は、とても質素でした。

食事は決まって、ごはんに焼いたたらこ、そして熱いお茶。それだけ。
たらこでない日は塩辛くて堅い焼き魚です。

家族で焼き肉を食べに行くときは、決まって親父はミノを注文します。
歯ごたえがあってうまいんだよと。
そのくせみんなには柔らかくておいしい肉を食べさせます。

服装もシンプル。というか無頓着でした。
下着にへちま襟のカーディガンをはおる、という恰好が多かったですね。
もちろん外出するときも。
女性のいる飲み屋でも。
お偉いさんがいる酒席でも「こんな恰好ですみません」と言いながら。

親父は飾りけがなく、質実ということではほかの誰よりも勝っていました。
人の上に立つ者が、下の者より慎み辛抱する。
それゆえに、それを知る者は感心し好きになり、心服したのでした。

建武館 篠田剛

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『親父の茶目っ気と社会貢献』 26

2010-12-04

親父のもう一面。
ユーモアと茶目っ気のある人でした。
人を喜ばせることに全力疾走する人でした。

事業が上向いている頃の話。
千葉に平屋を一軒、夏のシーズン中に借りました。
そこに、社員や少年野球チーム、町内会の方々などを招待していました。

近くにはきれいな海に白い砂浜。
朝の掃き掃除、食事の手伝い、たらいで洗濯、まきで風呂焚き…。
子ども達にとっては楽しい思い出です。

そこで親父の出番です。
茶目っ気が本領発揮されます。

お米のとぎ汁をコップに注いで、子ども達が海から帰ってくると、「カルピスだよ」。
大人たちには金魚を天ぷらにして「えび天」だと…。
金魚だけにギョッとすることも。

遊び疲れて寝静まったころ、ペンを取り出して顔や体にいたずら書き。
みんな、自分の顔に書いてあるとも知らずに人の顔を指さしてげらげら笑いあいました。

親父はもう止まりません。

今度はオチンチンをひもで結んで天井の梁を通してほかの人のオチンチンと結びます。
一方が寝返るともう一方がイタッ!となるわけです。

こんな調子でいつも笑いが絶えませんでした。
オンとオフの使い分けが上手でしたね。

親父にとってこの家は社員の福利厚生でありましたが、
実のところは地域の方々や子ども達に対する社会貢献の一環だったのでしょう。

祖父もまた社会貢献に尽力した人でした。
教育にも熱心で、母校板橋第一小学校に多方面で協力したようです。
親父はその血を受け継いでいたのでしょう。

建武館 篠田剛

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『イクメン子連れ狼』 27

2010-12-05

オチンチンを紐で結ぶイタズラは、危ないですからマネをしないでください!
親父だからこそ、親父との人間関係ができていたからこそですので。

このように親父は茶目っ気があり優しい人でした。
ただしそれは私が小学生になってからの記憶であって、
それ以前は思い出らしいものはありません。

幼少の頃の親父とのスキンシップはなかったですね。
おそらくとても不安定な子どもだったと思います。

そんな息子をみて親父は猛省し、
足りなかったスキンシップをめちゃくちゃなスピードで濃く深く補います。
そのおかげで私は心の安定を取り返したように思います。

流行語になったイクメン。
育児に積極的という意味では親父はイクメンです。
だけどちょっと違います。

そうですね、イメージとしては、つるの剛士というよりは、
子連れ狼の拝一刀の方が近いでしょう。

ハグなんかありません。
いや、一度だけありました。

ある日の夜。
自宅で会議をした後に酒席となり、
飲めぬ酒をあおって場を和ませ自分は中座します。

2階にいた私を見つけ、珍しく「一緒に寝よう」というのです。
親父は添い寝したこともないくせに、その日は酒が効いていたのでしょう。

私も不慣れ(へんな親子ですが)。
親父とくっついていると照れくさくて眠れません。
ときたま、ヒック…ヒック、と喉を鳴らしながら、眠っています。

私は、親父の寝息の長さを自分と比べながら、
大人の方が長いんだなぁとわけのわからないことを考えながら、
知らぬ間に寝ていたのでした。

普段は「男」としての姿しか見せない親父が、
酒に負けて油断して、優しさと、そして寂しさを露呈してしまった夜でした。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『第2の継母との平穏な日々、そして激震』 28

2010-12-06

高校時代、もう一人の継母と対面することになりました。

若い継母との出会いは衝撃的でしたのでよく覚えています。
しかし、次の(こんな言い方は適切ではありませんが)継母は、
いつどこで対面したかよく覚えていません。
またか、というわけのわからぬ免疫ができてしまったからでしょうか。

その継母は私を剛さんと呼び、深入りしない配慮をしてくれました。
つかず離れずの距離を置いてくれたおかげで、
家庭内は特段のいざこざもなく過ごすことができました。

しかし、
平穏なときを過ごす、そんなある日に激震が起こります。
耳を疑いたくなるような、嘘であってほしい言葉を聞きます。


親父に、癌が見つかりました。


建武館 篠田剛

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『手術の日』 29

2010-12-07

親父が癌になった。

あの、強い親父が病気に負けるなんて。
とても信じられませんでした。

それまでひとつも、まったく、
ここが痛いあそこが痛いなど、親父の口から聞いたことありません。
私たち子どもの前でも、そんなそぶりも見せませんでした。

少し前に体調を崩して倒れたことがありました。
それが癌の兆候だったとは。

親父はいつもかなりの無理をしていました。

もともと胃腸が弱く、腹巻は欠かせませんでした。
飲めない酒を毎晩のように付き合いました。
座椅子の横にある太田胃酸の粉末をすくって飲むのが日課でした。

事業でも悩みが増して、無理に無理を重ねてしまっていたのでしょう。
しかし子どもの前では弱音を吐いたことが一度たりともありませんでした。

そんな親父が手術入院します。
術前はまるで変わらぬ親父でした。
ベッドの上でも冗談を言って人を笑わせます。
こんな元気な人が癌なの?まだ信じられませんでした。

そして、いよいよ手術の日を迎えます。

手術室に行くため、移動式のベッドに移ります。
病室を出るとき、片手を挙げて私たちに、

「ちょっと散歩に行ってきます」

いつもの強気な親父でした。

建武館 篠田剛

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『最後の教育』 30

2010-12-08

ちょっと散歩に行ってきます。

そう言って、親父は手術室に入りました。

予定時間が大幅に過ぎて手術は終わりました。
完治は無理。
覚悟の上ながらも淡い期待は消えました。
術後の回復を待ってのち退院し、自宅に戻り療養することになりました。

継母より、親父には癌ということを知らせないでほしいとお願いされ、
その言いつけを守りました。
しかし父は我々の態度や自身の具合からも、
うすうす察していたのだと思います。

親父の闘いが始まります。

病に対しての闘いはもちろんですが、
それよりも、いかに最期まで毅然とふるまえるか。
折れそうになる自分の弱気な心との格闘に、親父は挑んだのだと思います。

それは、おのれのため、というよりも、
私たち子どもに授ける体を張った教育、
命を懸けた最後の教育、だったのだと思うのです。

建武館 篠田剛

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『親父、つらいんだよな』 31

2010-12-09

自宅療養とは名ばかり。
親父は術前と変わらず、外出してはいろいろな会合に出席しました。

徐々に体力がなくなり、自力では階段を上り下りできなくなりました。
すると、会合の主要メンバーに「負ぶってくれ」と言います。

互いににこやかに階段を下りる姿にはまるで悲壮感はなく、
老いた親を背負う息子のような、そんな清々しさすら感じる光景でした。

この時すでに消化不良、吐き気や嘔吐で甚だしく体重は減少し始めています。
おそらく全身の倦怠感に襲われているはずです。
しかし自宅でも私に痛いとかつらいとか一切言いませんでした。

食べたものがすぐ便に出てしまうのですが、そのことを、あくまでも陽気に、ほらな、という感じで、
入浴時に洗い場の排水溝をトイレ代わりにブリッと出していました。
あくまでも陽気に。

ただ、私が自室に入り眠りについたなと思うと、トイレで嘔吐していました。
とても親父とは思えないような、悲痛な甲高い声で。

親父、つらいんだよな。
俺たちのために、俺たちの前では、自分の身を犠牲にしてまで、男の姿を貫き通す親父。

建武館 篠田剛

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『水かぶり』 32

2010-12-10

いつだったか記憶にありませんが、正月の朝、私は親父に誘われて水かぶりをしました。
そしてそれは、二人の毎年の恒例行事となりました。

親父から聞いた話では、祖父は一年365日、風呂場で冷水をかぶっていたそうです。
親父としては、その習慣なり精神なりを私にも継がせたいと思ったのかもしれません。

水かぶりの場所は自宅の玄関を出た門扉の内側。
そこに蛇口があり、桶に溜めた冷水をかぶるのです。

裸足で歩くだけで地面の冷たさが足裏から体全体に伝わって芯から冷えます。

初めは親父が手本を示します。何食わぬ顔でやってのけます。
私も負けじとかぶるのですが、ヒーッと息が止まって死ぬんじゃないかと思いました。

ただし、やり終えたあとは裸でいても体がポカポカと暖かいのです。
その充実感やら達成感はやってみなければわかりません。
それから毎年の正月を迎えると、ヨシ!という身の引き締まる感情の高ぶりを感じるのでした。

しかし、その年は勇ましく高ぶる気持ちにはなれませんでした。
癌が進行して痩せ細った体なのに、親父はいつも通り水をかぶるというのです。

建武館 篠田剛

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『最後の 親父との水かぶり』 33

2010-12-11

新年早々に行われる会社の新年会。
いつの年からか、
その日の朝に、親父と二人で水をかぶる習慣ができました。

寒空の下、身を冷水で清め新たな出発を心に誓ったのだと思います。
そしてまた、祖父の代から始めたこの習慣を、
私にも継がせたかったのだと思います。

明けて正月。
いつもの正月なら心が高ぶる水かぶり。
しかし、この年は不安で不安でしようがありませんでした。

親父の体は癌に蝕まれて痩せ細り、まぶたも落ち込み、
とても尋常ではありませんでした。
そんな体になってまで、当たり前だと言わんばかりに、
水をかぶるというのです。

剛、桶を用意しな。

外はとても寒く、健康な体でも身震いするほど堪えます。
はたして、親父の体では耐えられないだろう。

とはいえ親父の心はよくわかります。
なぜかぶるか、わかっているだけに、私は桶を用意することにしました。

用意しながらもやはり無性に心配。
そこで…
その桶に、ぬるめの水をそっと入れました。
外気の差で湯気が出ないようにぎりぎりまで。
湯気が出ていれば冷水に取り替えろと言われるのはわかってますから。

ぬるめの水を入れた桶を置いて裸で待っていると、
誰の声だか、やらなくなった、と聞こえました。
よかったとホッとしながら桶の水を流して捨てた時、
それは聞き間違いで、やはりやるようなのです。

親父はこちらに向かっています。

あぁ、まずい。捨てちゃった…。

建武館 篠田剛

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『最後の 親父との水かぶり 2』 34

2010-12-12

水かぶりはしなくなった、と勘違いした私は、
桶に入れたぬるめの水を捨ててしまいました。

あぁ、まずい。捨てちゃった…。

慌てた私のとった行動。
それは、急いで桶に水を溜めて、両手を突っ込んだのです。
体温であたためようとしたのです。
そんなことしても無駄かもしれないけれど。

指の股を広げると体温が奪われてジーンとしてきました。
それほど冷たかった。
ちょっとは温まるかなと思いつつ手のひらを勢いよく左右に振って、
親父が来る直前にさっと手を抜きました。

親父が来た時に、やめておけば?ということもできたが、
それは、親父を“みくびる”ようだ。
だけど、ここで止めなかったがために倒れて死んでしまえば一生悔やむ。

ああ、どうしよう。
そんなこと思っているうちに、
親父は、結局、冷たい水をかぶりました。

私がとめなかったのは、いや、とめられなかったのは、
親父は身を賭して、
私たちに、生きざまを授けてくれているというのが、
痛いほどわかっていたからです。

当の本人は“心配無用だよ”と言わんばかりに淡々と、
新年会へ行く準備に移っていました。

建武館 篠田剛

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『新年会で最後の雄姿』 35

2010-12-13

会社の新年会は、板橋区立産文ホール、
現在のグリーンホールという所で行いました。
社員をはじめ、日頃お世話になっている方々や、
町内会の方々も招いて、和やかに行われました。

前半は表彰などの式典、後半は祝宴です。
祝宴の舞台では、余興でカラオケや踊り、
そして空手演武を披露するのが慣習でした。

親父はその演武で、試し割りをするという計画を立てていました。
周囲は当然、反対で、それは無茶ですと止めたようですが、
親父は頑として譲りませんでした。

演目は二つ。
一つは、角材を剣道のように振り下ろさせて、
上段受けといって前腕で角材を折るもの。
二つ目は、縦横30cm角ほどの杉板を、
確か5枚重ねて手刀で割るものでした。

羽織袴で登場した親父。
がりがりなので、
お腹に何枚もバスタオルを巻いて膨らませていました。

上に挙げて羽織から覗いた左前腕は、角材より遥かにか細かった。
振り下ろす角材の重みに筋肉が耐えられないからと、
右手を握って左前腕の下にあてがって支えた格好になって、
準備が整いました。

誰が見ても無茶な行動。
怪我だけでなく命を早めるかもしれない。
それを承知で、その覚悟をもって、
親父は臨んだとしか考えられませんでした。

親父は、これがおそらく最後の演武になるだろうと、
悟っていたのでしょう。

建武館 篠田剛

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『純粋に 親父は凄い』 36

2010-12-14

体格のいい人が、思いっきり角材を振り下ろす。
この人も、親父の心意気がわかっている人でした。
だからこそ、無心で思い切り振り下ろせたのだと思います。
普通の人なら躊躇するはずです。

角材は、親父の前腕の部分でポキッと折れて飛んでいきました。
振り下ろす人も上手かった。
相当、覚悟して振り下ろしたことでしょう。

続く杉板割りは、二つのブロックの間に板を重ねて置きます。
お相撲さんがしこを踏むようにやや股をひろげ、
腕を上から下に振り下ろして割るものです。

気合いとともに振り下ろしますので、足腰だけでなく腹筋も使います。
手術で腹を切った親父にとっては、
力がはいらないばかりか傷口によくない行為です。

杉板は5枚重ねると結構割れません。
殴った手も痛くなります。
親父は構わず、力が入らぬ腹に力を込めて、
気合いとともに腕を振り下ろし、見事、割ってのけました。

親父は凄い。

舞台の袖で見守っていた私は、
ただ単純に、ただ純粋に、そう思いました。

建武館 篠田剛

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『兄からの悲しい知らせ』 37

2010-12-15

いつの日からか、親父は温泉旅館で療養することになりました。
自宅にいれば見舞客など人の出入りが多く、
弱いところを見せない親父は
常に気を張っておらねばならず、
さぞつらい日々だったろうと思います。

私は土日を利用して旅館に寝泊まりしました。
ぬるめの温泉にゆっくりつかると体の芯まで温かくなる。
それを親父は喜んでいました。

身体は筋肉もなくなり骸骨のように痩せ細っていました。
すでに旅館の階段を上り下りできないほど衰弱していました。

しかし階段での補助以外は人の支えを断り、自力で歩いていました。
写真を撮る時もおどけて、
鼻の孔に丸めたティッシュを突っ込んだポーズをするのでした。

こんな状態になってもまだ、
私の前でも決して痛いだの辛いだの言ったこともなく、
そんなそぶりも見せません。
そういう親父を見て、私はいつか来る親父の死を覚悟しつつも、
自分の中でそれを先延ばししていました。

ある春休みの好天日。
自動車教習所に通っていた私に電話が入り呼び出されました。
所内の電話に出ると、それは私の兄からでした。
兄から出る言葉に愕然とします。

「親父が死んだよ…」

「え…」

ああ、ついに来てしまった。

「わかった…すぐ帰る」

たしかこれくらいしか電話口では話さなかったと思いますが、
教習所の事務員さんは、
「気を付けて帰ってくださいね」
と気遣う言葉をかけてくれました。

おそらく私は周りの人が察するほど気が動転したのかもしれません。

親父が死んだ。

あぁ親父。

心の中で泣き叫びながら教習所を後にしました。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『おやじの右手』 38

2010-12-16

温泉旅館に着くと、
女将さんは部屋の入口に線香をあげて両手を合わせてくれていました。

部屋に入るとおやじの顔に白い布が掛けられていました。
おやじよ…少し前に会った時も痩せたと思ったけれど、
さらに頬はこけ落ちてまるで別人のようじゃないか……

ただひとつ、
元気な頃とまったく変わっていない所がありました。
それは“拳だこ”でした。

おやじは右手の、しかも中指の付け根の部分だけ鍛えていました。
もの凄く大きな拳だこです。
いくら痩せ細っても、その拳だこだけは大きいままでした。

おやじがジョニ黒の瓶で拳を鍛えているのを、
いつも間近で見ていたので、
おやじの手の形は絵に描けるほど目に焼き付いていました。

顔や体は変わり果てましたが、
右手を見ると元気な頃のおやじと再会した気分になりました。

ああ、おやじ、とうとう死んじまったか……
深く、改めて深く、深く悲しむのでした。

建武館 篠田剛

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『死んで惜しまれる人』 39

2010-12-17

おやじの弔問にはたくさんの方々がいらしていただきました。
花輪は路地から路地まで、
ずっと見えなくなるところまで並べられていました。

若かりし頃のおやじは暴れん坊で恐れられていたようでした。
一念発起して事業に身を置きますが、
人を信じて騙されることもしばしばでした。

しかし総じて、
おやじは義理人情に厚く周りから親しまれ信頼された人だったと、
子どもながらに感じます。

だからこそ、この花輪が証拠に、
死んで惜しむ人がたくさんいたのだと思います。

建武館 篠田剛

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『おやじらしい通夜』 40

お通夜。
私のおやじは破天荒。

ですので前代未聞のお通夜となりました。
お清めの席でのこと。
兄や私の友人も多数駆けつけてくれました。
みんな故人を前に、しんみりと偲んでいました。
そこに、誰からともなく

おやじさんはしんみりするのは嫌いだから、
おやじさん流に盛大に騒いで弔おう。

おやじはみんなから、
おやじさんとかおやっさんとか呼ばれていました。

私の友人の一人は芸達者で、
アニメの主題歌を振り付けで歌わせたら日本一、
いや宇宙一と呼ばれていました。

先輩がイントロを口ずさみ、それが合図かのように始まりました。
お通夜が一転して大宴会に変わった瞬間です。

テーブルに飛び乗り“デビルマン”だの“マジンガーZ”だの、
延々と持ち歌が披露されました。

飛び降りた勢いでテーブルの脚が折れて料理はめちゃくちゃ。
おやじも苦笑いの陽気なお通夜となりました。

建武館 篠田剛

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『人情に涙』 41

夜が明けて、祭壇に砂が供えられてありました。
その砂、おやじが好きだったあの海岸の砂でした。

どうして砂があるんだろう。
実はあの“大宴会”のあと、兄の友人小松悟君が、
千葉の勝浦まで夜通し車を飛ばして取りに行ったのでした。
人情の人です。

告別式の時も、焼香の順番が来た小松ちゃんが私に
「剛!」
と声を掛けました。
辛いだろうが気をしっかり持て、という檄だと思います。

絶対に泣くもんかと思っていた私は、
その一言で迂闊にも涙を流してしまいました。

建武館 篠田剛

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『尽瘁する覚悟をもった父親になろう』 42

出棺前に体を拭いてあげます。
私はおやじの右手の中指の拳だこを、
最後にぐっと拭いてあげました。

おやじは49で死んじまいました。
敦盛に“人間五十年”とありますが、
まさに織田信長と同じ歳で逝ったのです。

太く短く。
しかし、おやじは心の中で生きている。
親父の人生を意気に感じた人の心にも生きているのです。

今、死なずにいれば、
どれほど我が息子を男の道にいざなってくれたことでしょう。
それを思うととても無念です。

私を愛してくれたおやじ、
尊敬するおやじがあっけなく死んだ。
限りある人生、というものを感じます。

私もおやじのように、
我が子のために尽瘁する覚悟をもった父親になりたいと思いました。

そして道場の子ども達に対しても同じ気持ちで接し、
空手という器で心を伝えたいと思うのです。

建武館 篠田剛

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『小汚い学ランの男』 43

2010-12-18

おやじが亡くなったのが4月2日。
その直後に私は念願の拓殖大学に入学しました。

拓大は空手の名門でしたが流派が違っていたので、
私は空手部以外のクラブに入ろうと初めから決めていました。

学内ではクラブの新入生勧誘が始まりました。
私は当時パンチパーマでしたので、
私への勧誘はガクランの先輩ばかりでした。

勧誘は、それはもう強烈でした。肩を組んできて強引に誘います。
しかし私の理想とするクラブにはめぐり会えませんでした。

何日かして、
私のクラスにいた小汚い学ランを着た男が私に声をかけてきました。
まさか同級生が?と思いましたが、やはり私を勧誘しにきたのです。
先輩が、私を誘うようにと言われたようです。

恰好に似合わず語り口が優しい男、
この男に何だかわからぬ興味をひかれてしまいました。

男が言うには、
そのクラブは精神修養として坐禅をしているというのです。
坐禅か…。
とにかく先輩がいい人だから一度会ってみれば、というので、
私は彼の後についていくことにしました。

建武館 篠田剛

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『人物との出会い』 44

2010-12-19

とにかく先輩がいい人だから一度会ってみればというので、
同級生の後についていくことにしました。
そこには何人かの先輩がいました。
その中の一人がこの会を代表する人らしい。
同級生に促されて代表の人と会いました。

その人は高圧的な態度はまるで見せず、
しかし威厳を感じさせる人でした。

まるで違う。

ほかのクラブはこっちに来いこっちに来いと引っ張ります。
でも、ここは何か違うのです。
吸い寄せられるというか。

会の趣旨を説明され、その場は即答せず、
後日じっくり考えてから返事をすることになりました。

即答できなかったのは、
つい何日か前におやじを亡くして、
まだ心の整理がついていない状態だったからです。

地元にある小料理屋で兄と小松ちゃんに、
その会に入る意思を告げました。
二人から、お前が決めたのなら頑張ってやってみろと背中を押され、
決意しました。

建武館 篠田剛

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『その名は、恩慈宗義』 45

会の名は、拓禅会。

そして、その会を代表する人。
その名は、恩慈宗義。

男というものを明確に、余りにも明快に、行いで示してくれた人。
私の体内にある“男”という種に陽を当てて芽を出させてくれた人です。

強いだけでひれ伏す気持ちになれるか。
正しいことを言われても心から納得できるか。

人は、強いだけで、正しいだけでついていくものではありません。
その人の、人柄についていくものです。
この人と一緒にやりたい。
恩慈先輩は、そう思わせ、人から慕われる人物でした。

これほど人の人生を大きく劇的に変えられる人はいるでしょうか。
私は恩慈先輩との出会いが一つの転機となりました。

建武館 篠田剛

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『唯一の同期』 46

2010-12-20

私を誘ってくれた同級生。
彼が私に声をかけてくれたからこのような出会いができました。

大学では同期といいます。
その同期の名は嶋田寿士。
拓禅会では唯一の同期。

彼は常に、何かやるべきことはないかと思いを巡らし、
自主的に行動していました。
先輩からはいつも、俺の女より機転のきく奴だと褒められていました。

心と気を働かすことは大事で、心が怠けていれば体は動かない。
心を使うのは怠けていないしるしです。
同期の中で、心遣い、気働きにおいて、
彼の右に出る者はいませんでした。

しかしその反面、外見はまるで無頓着。
髭はぼうぼうで4年間ずっと学ランで通しますが、
その学ランは一度たりともクリーニングも洗濯もしませんでした。

内面と外見がこれほど違う男はめずらしい。
これが嶋田の魅力の一つであり、私は秘かに尊敬していました。

建武館 篠田剛

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『学生服の次は下駄』 47

2010-12-21

私は入会初日に、次からは学ランで来るようにと言われ、
高校時代に着ていた学生服を、
引っ張り出して着て行くことになりました。

ハイカラーで長ラン、ずんどうといわれるズボン、革靴。
高校時代の私の学ランはツッパリ仕様でした。

しかし、先輩方のそれは、
どちらかというと書生さん、という感じのものでした。
学帽をかぶり下駄ばきで腰に手ぬぐいをぶら下げていました。

先輩は矢継ぎ早に、
今度は下駄を履いてくるようにと言われました。

このコラムを読んでいただいている方はおわかりかと思いますが、
私は当時とても、非常に恥ずかしがり屋でした。
下駄をはくだけでも恥ずかしい。

その私が次の日から下駄で通学しなければならなくなりました。

建武館 篠田剛

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『下駄をならしていざ拓大』 48

2010-12-22

下駄ばきで拓大へ行くことになりました。
歩けばカランコロンと響きます。
腰には手ぬぐいもぶら下げます。

同じ学生服でも高校時代はツッパリ風、
今はツッパリ仕様なんだけど書生さん風。
服装も心もどっちつかずで中途半端な時でした。

自宅の最寄り駅である東武東上線大山駅へ行くには、
地元の遊座大山という商店街を通り抜けなければなりません。
そして、池袋、新宿へと…。

道行く人は下駄の音がうるさいので、
後ろを振り返っては好奇な目で私をジロジロ見ていました。
恥ずかしがり屋の私は、それだけでもドキドキでした。

そんな日々を繰り返しているうち、
おもしろいことに、徐々に気持ちに変化が現れます。
ある日、私はジロジロの視線を感じながら、
こんなへんな呪文を心の中で言うようになりました。

見るなら見ろ
笑うなら笑え
これが俺の生き方だ
文句あるか バカヤロウ


恥ずかしがり屋でうつむき加減だった私は、
いつのまにか、真っ直ぐ前を向いて歩けるようになっていました。

建武館 篠田剛

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『就活に役立つ?発声練習』 49

2010-12-23

一年生のことを学一、二年生のことを学二、という具合に呼びます。
学一、学二は、どんな時でも大きな声で、
挨拶、返事、ことばを交わします。

そのための訓練のひとつに「押忍連呼」というものがあります。
二人が交互に押忍、押忍と何度も大声で続けて言う訓練です。

大きな声を出し合うのは、
“俺も元気に頑張るからお前も頑張ろうぜ!”
と互いを励ましあうことでもあります。
ほかにも通称「タータクダイ」というのもありますが、
こういう訓練を続けると、腹から大きな声を出せるようになります。

これら訓練は私を大きく変えてくれた一つです。
私はもともと恥ずかしがり屋でしたが、
大声を出すべき時は出す、というスイッチを入れられるようになりました。

普段は優美なキャビンアテンダントも、
事故があれば大声で乗客を誘導する。
それがプロ。
おとなしい性格でもやらざるを得ないのです。
読売新聞の「就活ON!」から引きました。
まさにその通りです。

挨拶や返事が大きな人はやる気を感じさせます。
性格も朗らかで利発に見えます。

もし私が会社の社長さんなら、そういう人を雇いたいと思うでしょう。
たとえ能力が不足していても朗らかな方が、
周りの社員も明るくやる気にさせる波及効果があるからです。

この発声練習は就活にも役立つものだったのかもしれませんね。

建武館 篠田剛

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『拓大で動く禅を学ぶ』 50

2010-12-24

拓殖大学の拓禅会に入れたことは幸運でした。
禅で得たものもあります。
しかし、それ以外のことで学んだことの方が私にとっての禅でした。

酒も然り、夜遊びも然り。
これまでにない、生きた勉強をさせて頂きました。
先輩方の多彩な顔ぶれもまた魅力でした。

恩慈先輩の傍らにいらした高島義先輩は、
仙人と見紛う出で立ちでした。
長身で細身、無精髭、ぼろぼろの学帽を被りぼろぼろの羽織袴。
生木の枝を折ったような杖をついていました。

学食で見かけた昼食は白米と豆腐。
生活態度、身なり、行動、すべてに飾り気がなく、
素朴、質実という言葉がぴったりの先輩でした。
時に厳しくも優しくご指導いただきました。

豪快、豪放、豪侠、豪傑、そして豪酒。
副会長である小花俊一先輩を一言でいえば“豪”の人でした。

雪解けの水たまりを避けずに真っ直ぐ歩く人でした。
何十・何百の大先輩を前にして放尿する肝の人でした。

恥ずかしかろうが、辛かろうが、
“それは無理”とういうことでも「やれ」と言われればやるのだ。
そういうことを叩き込んでくれました。
すべてにおいて並外れた、型破りな人でした。

私は多くの先輩からそれぞれに多くのことを学び、
そして吸収していきました。

建武館 篠田剛

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『ばかになり切る』 51

2010-12-25

OBを招いての酒席は常に緊張の連続でした。

会場の予約や、招待状を一枚一枚丹念に書くことから始まり、
酒の注ぎ方や煙草の火のつけ方や、
粗相のない進行、飲んでも酔わず無事にお開きにさせる。
失敗しては叱られて覚えていきました。

宴の途中では興を添えるため、後輩が拓大の歌をがなり声で歌います。
「押忍。
拓禅会、学一篠田、拓大トコトンヤレ節、歌わさせて頂きます」

ひととおり拓大の歌が終わると、次は、ばか歌に移ります。
ばか歌はそのものずばり、ばかになって楽しませる歌のことです。

童謡だろうと何だろうと、自分の持ち歌を曲に合わせて踊ります。
恥ずかしがってはいけません。
ばかに徹して真顔でやります。

他の愛好会同期の間で、
“尻込みするようなことを平然とやってのける”
ということを、
その覇を競うが如く我先にとやっていくようになっていきました。

酒席を仕切ることは人の心をつかむという意味で、
社会でのリーダーとしての準備体験となりました。

また、酒席でのばか歌は、いざという時
“ばかになり切る”スイッチを入れる訓練となりました。

建武館 篠田剛

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『柳屋のポマード』52

2010-12-26

学帽の作り方を先輩から教わりました。
作るといっても縫製するわけではありません。
蝋とポマードで“焼き”を入れます。
気合いを入れて“しゃん”とさせるわけです。

確かこんな感じでした。

まず学帽の表面に蝋をたらします。
蝋燭に火を灯してその表面をあぶります。
毛羽立ちが熔けて硬くなります。

あぶりすぎると焼けて穴が開いてしまいます。
これがまた夏場は風穴となって頭が蒸れずにすみます。

そして最後に『柳屋』のポマードを塗ってなじませて完成です。
なぜ柳屋なのかわかりませんが、
恩慈先輩が「柳屋がいいんだ」と言われるから、柳屋がいいのです。

軟弱な書生帽から、気合いの入った拓大帽に変わりました。
作れば愛着と誇りが湧いてきます。

弊衣破帽は、
“男として闊歩するのに身なりを気にする暇などない”
という心の表現でした。

建武館 篠田剛

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『足袋とマントと股引と』53

2010-12-27

下駄ばきに手ぬぐいをぶら下げて、
ぼろぼろの学帽を被って通学します。

それは、
男を鍛えているから身なりを気にする暇などない、
という心を態度で示しています。

冬、拓大八王子校舎は高尾にあって厳しい寒さ。
先輩の足元を見ると、足袋を履いていました。
翌日から真似をさせて頂きました。
ちょっと前までは革靴に靴下、今は下駄に足袋です。

さらに厳しさが増すと、
これもまた先輩を真似てラクダの股引を履きます。
恥ずかしがり屋の十代が、
まさかラクダの股引とは、思ってもいませんでした。

防寒着として「とんび」という外套を先輩よりいただきました。
和装用のコートとして着用することもありますが、
それを学ランに羽織ります。

学三になると学生マントが許されます。
これがまたかっこいい。

恩慈先輩のそれには、
背中の部分に「拓大」と大きく白糸で刺繍されていて、
憧れていました。

建武館 篠田剛

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『一人ぐらいはこういう馬鹿が』54

2010-12-28

一人ぐらいはこういう馬鹿が、
居なきゃ世間の目は覚めぬ


この頃の私の心境でした。
硬派に憧れて、
より男らしく振る舞いたいと思うようになりました。

下駄は歩くと歯の部分が削れて短くなります。
草履のように平たくなって、
やがて、真っ二つに割れてしまいます。
そこに、ガムテープを貼って履き続けました。

番傘も使っているうちに油紙がぼろぼろになって、
しまいには竹の骨組みだけになってしまいます。
まったく傘の役目を果たさないのですが、
雨でずぶ濡れになりながら、それでも差し続けました。

いずれお話しする山岡鉄舟の人柄を表した唄、

下駄はビッコで着物はボロで、
心錦の山岡鉄舟


そんな心意気で、世の中を闊歩していました。

建武館 篠田剛

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『紋付き姿で、いざ鎌倉』55

2010-12-29

紋付き袴一式を揃えることになりました。
拓禅会一同、浅草寺に向かいました。

行先はちどり屋という男性の着物専門店。
五重塔通りの一角にあります。

先輩が店主に声をかけると、奥から段ボールが運ばれてきました。
その中には学生でも買える、
手ごろな値段の古着がたくさん入っていました。

先輩が選んで、我々学一に一式を買ってくれたのです。
これで拓禅会一同が紋付き袴を持つことになりました。

先輩は紋付きを拓禅会全員で着て、
遠出する計画を立てていました。

初めて行ったそこは鎌倉でした。
一同、電車でごろごろ移動します。

白地に墨で、
“拓殖大学拓禅会”
と大きく書いたのぼりを立てていざ出発。

先輩との同行は緊張ですが、
ボロの紋付き姿で初めての遠出、
胸が鳴って爽快でした。

ぼろは着てても こころの錦
どんな花より きれいだぜ
若いときゃ 二度ない
どんとやれ 男なら
人のやれないことをやれ


男らしさを姿かたちで表すのでした。
いっぽんどっこの唄を口ずさみながら。

建武館 篠田剛

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『本物の先輩になるための修行』56

2010-12-30

拓禅会、恩慈先輩の指導教育には、
厳しさだけでない別の面もありました。
人の上に立つ人の備えるべき資質というものも教わりました。

教えには、
“いいものは強制的にでもやらせる”
という激しく厳しいものがあります。

その一方で、
“先輩は後輩よりも辛抱努力する”
という一面もあります。

卑近な例をあげれば、腕立て伏せを学一が50回やれば、
学二は60、学三は70、学四は80やる。
辛抱も努力も後輩を超える。
そうして後輩はやがて、先輩を敬い、心服するのです。

これは後輩への指導教育でありますがすが、
本物の先輩になるための自らの修行でもあるのです。

厳しさだけでなく思い遣りも後輩に超えろという、
人の上に立つべき尊い教えでした。

建武館 篠田剛

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『ガマンが仇?殴り返して反則負け』57

2011-01-19

高校時代の3年間は技術がメキメキ上達しましたが、
精神が追いついてこない時期でもありました。

この頃は様々な大会によく出場しました。
スピード・力・正確さを重視した稽古を積んでいましたので、
高校3年生くらいになる頃には、
繰り出す技の速さには自信がありました。

試合で主導権を握るのは常に私の方でした。
何事もなければ私の勝ちです。
何事もなければ……。

その頃の試合ルールは、いわゆる寸止めでした。
つまり当てると反則になるルールです。
とんとん拍子にポイントを重ね、
ヨシ!俺の勝ちだな!と思った瞬間…

バシッ。
相手が私に顔面パンチ。

こういう場面で、
私の精神が技術に追いついていないところが露呈します。

“よくも俺様の顔を殴ったな…”と。
“上等じゃねえか!”と。

やけに落ち着いて、冷静に、ガツン、
とやり返してしまうのでした。

私は殴られても痛がりませんので、
殴った相手は軽微な忠告程度ですむ。
反対に、相手はちょっと当てられただけなのに、
オーバーアクションで痛がり、私には重い反則がつきます。

あともう少しで勝つところなのに。
私はガツン、とやってしまうのでした。

建武館 篠田剛

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『やられたらやり返す 若気の至り』58

2011-01-20

高校時代の試合の話。
当ててはならないルールでのことです。

殴られて痛がるのはかっこう悪いからガマンします。
だけど、殴られてそのまんまだと癪にさわる。
だから、ガツンとやり返してしまいます。

結局、私は殴られても痛がりませんので相手の反則は軽微となり、
だから、いつも私の反則負け。
この時期は、こんな終わり方の試合が続きましたね。

観客席からも、
私の心理状態がよく見てとれたそうです。

小松ちゃんがよく話してくれました。
だいたい剛は、
勝てる試合なのに当てられたらやり返して負けちゃうんだよ、と。

観客席では、こんな会話が飛び交っていたそうです…。
「あ、当てられた。もう負けだな(苦笑)」
「剛の顔を見てみな。さぁーっと血の気が引いてくるよ。」
「ほら、ほら、な!」
「そろそろ当てるぞ。」
「やっぱり当てた。はい、もう負け。おしまい!」

ケンカじゃないし、相手はわざと殴っているわけでもないのですが。
若かりし頃は、やられたらやり返すという感じでした。
ばかなことをしていました。

建武館 篠田剛

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『潔いこと』59

2011-01-21

若気の至りでしたね。
若さに任せて本能で動いてしまいました。

ただ、そういうばかなことばかりの中で、
小松ちゃんに褒められたものもあります。
それは殴られても痛がらないことでした。

当たり前のようですが当時そのように振る舞う選手が少なかった。
たいがいは、試合中に当てられると大げさに痛がって、
相手からファールを奪っていました。

罰則に触れないグレーゾーンであざとく勝つ。
これが許せなかったですね。
だから私はたとえ痛くても、瞬間、脳震盪を起こしても、
何食わぬ顔で試合を続けていました。

それを小松ちゃんは認めてくれました。
潔いと。
嬉しかったですね。

試合に勝って褒められるのも嬉しいのですが、
男として評価された方が何倍も嬉しかった。

試合のあと、
俺が見に来るといつも反則負けじゃねえか!と皮肉られましたが。
 

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

 

『自信につながる』60

直接打撃に変わってからも同じようなことがありました。
キックのプロで活躍している道場生が昇段審査を受けた時のこと。

審査では素手素足で組手をしますが、
馴れ合いの組手は断じて許しません。
ですので力いっぱい突き蹴りします。

彼は180cmを超える長身。
私の胸元を狙ったつもりが喉に食い込みました。

あのときは30秒、いやもっとかな。
息ができませんでした。
それでも平然とやっていたので、
彼はまったく気づかなかったようでした。

もちろん後で彼に「痛かったぞ」なんてことも、
当てたことさえ言っていません。

そういった振る舞いは自分の心を満足させるためだけなのですが、
しかしそれは自信につながるものでもありました。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『父子鷹』61

2011-01-22

生前、おやじは私に本を買ってくれました。
おやじから本をもらったのはこれが初めてでした。

それも20冊ほどまとめて。
私に読ませたい本を選んでくれたのでしょう。

しかし恥ずかしい話、私はこれまで読書の習慣はありませんでした。
ですので、しばらくは本棚に置いたままでした。

おやじが死んでから、ふと、
そういえばおやじが本を買ってくれたよな
と改めてずらりと並んだ本を眺めました。

すると、分厚い本が目に留まったのでした。
それは、『父子鷹』という、子母澤寛の小説でした。

読書の習慣のない私がこんな分厚い本を手にしたなんて、
私自身がびっくりです。
おやじが死んで恋しくて、“父子”という文字に惹かれたのでしょうか。

読書に縁遠い私が、その日から本を読むことにしました。

本は寝床で寝ころびながら読むもの、睡眠薬代わりに読むもの、
そう思っていました。

だから、2~3ページ読んでは眠たくなって、
しおりひもを挟んで眠ります。
こんなような感じが続きました。

どのくらい日数が経ったでしょうか。
やっと、ついに、分厚い本を読み終える日が来ました。
それが、ちょうど、おやじの命日だったのです。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『山岡鉄舟との出会い』62

2011-01-23

父子鷹に登場する勝海舟の名は誰もが知る所です。
海舟のほか、幕末から明治にかけて素晴らしい人物が登場します。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、そして坂本竜馬…。

しかし私はこの父子鷹を読んで、
勝海舟よりも、他の誰よりも心が惹かれた人物がいました。

それは、
山岡鉄舟です。

山岡鉄舟は、世間では西郷隆盛や勝海舟に比べて知る人は少ない。
だけどなぜか私は、この山岡鉄舟なのです。
私は、鉄舟の人柄や生き方に共感し、共振したのでした。

道場生にグローブなどをプレゼントするときによく、
勿怠
と書きます。
おこたることなかれ、と読みます。

これは実は山岡鉄舟が書き記したことばなのです。
私は自分自身に言い聞かせるように使っています。

猛稽古で辛くなると、両手で顔をパンッパンッと叩き、
尻や太ももが痛くなるほど、気が違ったかと思われるほど、
叩いて喝を入れたものです。

鉄舟は鬼鉄と呼ばれるくらい激しい稽古をしました。
怠け心が出たり、くじけそうになったりすると、
私はそのことをふと思い出しては自分に喝を入れたのでした。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『高歩院で禅と書』63

2011-01-24

20歳のときでしたか。
道場には時たま、それはエネルギッシュな先輩が稽古に来ました。
奥野雅己という先輩でした。

私も稽古に打ち込む気力は誰にも負けない自負はありましたが、
奥野さんは稽古中、目を血走らせ鼻から血を滲み出しながら、
鬼のようにやっていました。

その奥野さんが、ある寺院に行こうと誘ってくれました。
そこは中野区にある高歩院というところでした。

この高歩院、
「山岡鉄舟」を著した大森曹玄氏が住職として主宰する寺院でした。
鉄舟禅会といって、早朝に誰でも坐禅ができるところです。
私はさっそく、早朝、奥野さんとともに高歩院に向かいました。

奥野さんは寺院にある竹ぼうきをとって庭掃除をはじめました。
誰に指図されるわけでもなく、皆ごく自然に掃除を始めていました。
私も奥野さんに倣って庭の枯葉を掃きます。

身辺をきれいにしたあと、坐禅となります。
ただひたすら坐禅をします。

坐禅が終わると書道をさせていただきました。
書道といっても、縦にまっすぐ一本線を引くだけでした。
しかしそれがまた、むずかしいのです。

建武館 篠田剛

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『高歩院と素晴らしい縁』64

2011-01-25

高歩院での話。
禅と書の体験が終わり、
老いたご婦人が玄関まで見送りに来られました。

気品ある方でしたので、
おそらく大森曹玄氏の奥様だったのでしょう。
奥野雅己先輩は、玄関口でご夫人と会話されました。

ご夫人が腰の調子が悪いというと、
先輩は自分に整体の心得があることを告げ、
ご夫人を抱き抱えてギュッと持ち上げて“治療”をし始めました。

ここら辺が先輩の大胆なところで、
行動力とバイタリティはずば抜けていました。

ご夫人は大男に思い切り抱きかかえられたのですから、
苦痛だったに違いありません。
一瞬、うっと唸りました。

しかし、床に下ろされたご夫人は、動じた様子も見せず、
何事もなかったかのように平然と振る舞われていました。
その気丈さに並はずれたものを感じました。

その後私は、何度かこの高歩院に一人で足を運びました。
ある日ご夫人より、読んでみてくださいと、
昭和42年から、当時までに発行の「鉄舟」という冊子を、
何十冊もいただくことができました。
鉄舟(小冊子)

奥野さんに誘われた私は、
貴重な体験をさせてもらいました。

それにしても、
拓大の拓禅会、
おやじからもらった大森曹玄著「山岡鉄舟」、
そして奥野さんに誘われた高歩院。

縁とは確かにつながっているのだと、
実感せざるを得ませんでした。

建武館 篠田剛

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『田原俊彦似のタワラ』65

2011-01-26

私がバイクを乗り回している頃。
実家のすぐ近くに一つ下の男が住んでいました。

そのバイク、かっこいいですね!
初対面なのに、やけになれなれしい。

背は大きくて金髪。
着飾ってはいるが、しかしどことなく田舎者という雰囲気を漂わせ、
それがすごく取っ付きやすく感じさせました。
すぐに仲良くなりました。

男の名は後藤順治。
ジャニーズの田原俊彦に似ていて、
しかしタハラと呼ぶにはちょっと田舎くさいので、
タワラ、と呼ぶようになりました。

ある日、
タワラが私にバイクを貸してほしいというので貸してあげました。
その夜中にタワラから電話がありました。

彼の後輩に私のバイクを貸したようで、
その後輩が警察に捕まった、というのです。

慌ててタワラの住むアパートに駆け付けました。
部屋に入ると、タワラと高校生くらいの若者がいました。
その若者は捕まった男の友達らしい。
二人はテレビを観ながらくつろいでいて、
後輩が捕まっていることをまるで心配する様子もありませんでした。

私は何だか急に腹立たしくなり、タワラを叱りつけました。
後輩を護ってあげるのが先輩の役目だろう、と。

そんなことがきっかけで、タワラは私になついて、
つよし君、と言って私の後をついてきてくれました。

建武館 篠田剛

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『張本人、現る』66

しばらくして、私が誘ったのか、タワラが願ったのか、
忘れてしまいましたが、タワラがうちに居候するようになりました。

当時、実家に住んでいたのは兄夫婦と私だけでした。
そこにタワラが住み始めたのです。

兄は衣食住を面倒みてくれて、
タワラにとってはとても有難い時期となりました。

私も一つ下の弟ができたようで、
この頃は嬉しく楽しい日々を過ごすことができました。

のちにタワラは、
私の妻、勝美を引き合わせた張本人となるのでした。

建武館 篠田剛

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『彼女とおおらかな母』67

2011-01-27

タワラは美容専門学校の学生でした。
いつだったか、美容学校の仲間を家に連れて来ました。
千葉の守谷海岸にもよく連れて来ていました。

その仲間の一人に女の子がいました。
この女の子が、のちに私の妻になる勝美でした。

彼女は母との二人暮らし。
小さな間取りの部屋が二つだけの都営団地に寄り添うように住んでいて、
決して楽な暮らしとはいえませんでした。

その彼女に、今度家に遊びに行ってもいいか、と尋ねました。
いい、と言うので、それから私は、のこのこお邪魔するようになりました。

私は当時、拓大生で、めちゃくちゃ男臭い世界に生きていました。
拓大から直行することもありました。
当然、下駄ばきに羽織袴です。

女二人の生活の場に、急に時代遅れのむさ苦しい男が現れたのです。
こんな男からの誘いを、よくもまぁ受けたなと思います。

お母さんもびっくりする様子もなく、にこにこ迎えてくれました。
夕食もたくさん作ってくれました。

当時の私は大食いでしたが、「男なんだから」と腹いっぱいになるほど
どんどん料理を出してくれました。

夏は大きなスイカをざっくりと半分に切って、
「はい」と渡します。
大胆な人でした。

すぐに家に泊まらせてもらうようになりました。
そればかりか、付き合い始めて間もないのに堂々と「入ります」と
彼女と二人で風呂に入ってしまいます。
私も大胆でした。

大胆すぎるほど大胆に、さも何年も前から住んでいるかのように、
平気でやっていました。

たった一人の娘なのにそれをすんなり許してくれたお母さんは、
とてもおおらかな人でした。

建武館 篠田剛

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『情けなさと悔しさで涙、涙』68

2011-01-28

反則負けが続いた私ですが、
昭和58年に埼玉県大宮市で開催された大会を皮切りに、
型や組手の試合で優勝するようになりました。

その勢いに乗って、昭和60年に、
連合会という大きな組織の全国大会に駒を進めることができました。

これまで試合に勝ち続けていた私は、秘かに勝つ自信がありました。
会場はたしか神戸ポートアイランドワールド記念ホール。

試合は朝から始まるため、
前日からビジネスホテルに泊まり込む必要があります。
宿泊費や交通費は、有難いことに兄が負担してくれました。
負けてはいられません。

しかし……
初戦敗退。

たった数十秒でおしまい。
情けなかったですね。

みんなの期待を背負い、兄からも援助を受け、
前日からの泊りがけで兵庫まで行ったのに、
わずか1分足らずで終わってしまいました。

戦いに敗れて天狗の鼻をへし折られた気分でした。
みんなの前では隠していても、
一人になるともう悔しくて、たまらなくて、
情けねぇ…
涙、涙が流れました。

私の兄弟子にあたる方が、その試合の写真を撮ってくれていました。
ちょうど、私の顔面を相手選手の突きが捉えた、
まさにベストショットの写真でした。
負けた試合の写真をもらっても、有難くも何ともありません。

ほんとに、悔しかったですね。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『臥薪嘗胆 勿怠』69

2011-01-29

神戸の全国大会。
初戦敗退。
それも、たった数十秒。
情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて。

兄弟子からもらった写真。
負けた瞬間のベストショット。

そこには自分の情けない姿が写し出されていました。
これを、うぬぼれていた自分を戒めるために使おう。

そこで毎日いやおうなく見えるようにと、
自室のドアに貼り付けました。

そして写真に次の言葉を書きました。
『臥薪嘗胆』
『勿怠』

自室に出入りするたびに、
この忌々しい写真を目にします。

薪の上で寝ているようで、
苦い胆を舐めているようで、
この写真はほんとに私を奮い立たせてくれました。

そして、辛い稽古のときも、
悔しい気持ちを思い起こしては、
それを乗り切ることができました。

この日から来年の全国大会に向けてのリベンジが始まりました。

建武館 篠田剛

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『しかみ像と悔しい肉の塊』70

2011-01-30

しかみ像という絵をご存じのことと思います。
このしかみ像という絵は、徳川家康がある負け戦で、
恐怖に震えて逃げ込んでしまった自分を戒めるために、
自らの情けない姿を描かせたものです。

私にとってのしかみ像が、
兄弟子からもらった写真だったのかもしれません。

当時の稽古はほんとに苦しいものでした。
もちろん、手を抜けば楽なのですが、
手を抜く自分がいやらしいと思えて、
いくら辛くても手を抜きませんでした。

とはいえ生身の人間ですので、稽古の途中で
“ちょっと力を抜いて突こう”と頭をよぎる瞬間があります。

そんな自分を戒めるためによく使うのが、
過去の悔しかった事件・事故の「思い起こし」です。
辛いなあと思った時に、悔しかったことをわざと思い起こすのです。

頭の中でリアルに再現されて、当時の悔しい感情がわき出てきます。
アドレナリンが分泌されて交感神経が興奮するのでしょう。
辛かったのにまるで生き返ったように元気になりました。

よく道場生に「悔しい肉のかたまり」という例え話をします。
悔しい事象を大きな肉のかたまりに例えます。
一度に食べ切るのではなく、一口大に切ってラップにくるんで、
冷凍庫に保存しておきます。

食べたいとき、つまり辛いと思ったとき、
一つ取り出してはむしゃむしゃ食べるのです。

こうやって、怠けたい気持ちがもたげた時も、
逃げずに歯を食いしばってやってきました。

そういうすべを持っている人は、
粘り強く事を成し遂げることができると思います。

しかみ像(徳川家康三方ヶ原戦役画像)

建武館 篠田剛

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『感謝、感謝の後輩三人組』71

2011-01-31

翌年の全国大会に向けてのリベンジが始まりました。

当時、ふだんの稽古では組手の練習は一切ありませんでした。
もっぱら基本と型と鍛眼法でした。
唯一、鍛眼法で勘を養っていました。
組手は一人稽古するよりほかないもの、自分でやるしかないものでした。

ですので、あれこれいろいろ技の工夫をしましたね。
試合が近づくと稽古以外に時間を作って組手の自主練をしたものです。

ただし、組手は対人で行うものですので練習パートナーが必要です。
そこで協力してもらったのが地元の後輩連中です。

一つ歳下の、亀田、本村、戸谷という後輩三人組でした。
かれこれ26年も前の話です。
彼らは今でも稽古仲間です。

自分でいろいろ考えた技を彼らに試します。
何しろ私は現役バリバリで燃えに燃えていたので、
スタミナが有り余っていました。
だから一対一でやると彼らは息が上がってしまいます。
そこで三人をローテーションさせながら、
一対三で何回も何回も組手をしました。

この練習が私にとって、とてもいい結果となって後からついてきました。
三人には感謝、感謝です。
もしかしたら彼らにとってみれば、
あの練習は閉口だったのかもしれませんが……。

建武館 篠田剛

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『プレッシャーを受け入れる』72

2011-02-01

涙が止まらなかったその悔しさを糧に一年間稽古しました。
一年後の勝利のためなら苦しみに耐えられました。

稽古が辛くて時々頭をもたげた怠け心も
“お前はあの時の恥をもう忘れたのかよ”
自分にそう言い聞かせて心を奮い立たせたものです。

自分自身に喝を入れることは頻繁にしました。
しかし道場では私が一番先輩でしたし体力もあったので、
どうしても後輩に合わせてあげてしまいます。

ですので外部からのプレッシャーというものは望めませんでした。
そこで、よく出稽古に行かせてもらいました。
道場では自分からわざと悪条件を設定して稽古しました。
利き腕は使わない、足捌きだけで防御する、片目をつぶる、
などです。

プレッシャーを楽しむ、という境地には至れませんでしたが、
受け入れるくらいのことは常にやっていました。

後輩三人組もあの頃は献身的に協力してくれましたね。
おかげで技量もぐんと向上できました。
私の所属団体だった研修会の全国大会での念願の優勝も、
地元板橋での総合優勝もこのころでした。

そして。
いよいよ迎えた連合会全国大会。
昭和61年のことでした。

建武館 篠田剛

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『決勝進出を決める』73

2011-02-02

連合会の全国空手道選手権大会。
大会会場は神戸ポートアイランドワールド記念ホール。

一回戦は順当に勝ち進みました。
しかし二回戦で早くも山場を迎えました。
前年度優勝者と戦うことになったからです。

しかし、冷静でした。
自分でも驚くほど相手の動きが見えました。

そこで、三人組との練習でいろいろ考えた技を、
この試合で試してみることにしました。
すると本当にイメージ通りに動けて、あっけなく、
といっては大げさですが、だけどそう思えるほど
技が決まって、スムーズに勝つことができました。

これで波に乗れました。
その後の試合も勝ち進んでいき、
そして、決勝戦まで駒を進めることができたのです。

いよいよ決勝戦。
その時すでに体育館の窓から西日がさすほどの時間が経過していました。
斜めの陽が試合場に強く差しこんでいました。

アナウンスで名前を呼び出されて試合場に入ります。
二人に注目する観客。
何度味わっても、気持ちが高揚する瞬間です。
この日はまた格別でした。

建武館 篠田剛

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『雪辱を果たす』74

2011-02-03

連合会の全国空手道選手権大会決勝戦。

試合場には窓から差し込む西日がまぶしく注いでいました。
それが逆光となって相手の顔が真っ暗になってしまいます。

そこで自分に有利なポジションをと西日を背に戦いました。
まるで宮本武蔵気取りでしたね。

それだけ心に余裕があったのでしょう。
実際、常に私が主導権を握った試合運びになっていました。

しかし。
私は、やはり私らしい結果で締めくくってしまいました。

試合をコントロールして、そろそろ勝利が見えてきたその瞬間、
勢い余って私の拳が伸びて顔面にヒットしてしまったのです。
相手は鼻出血をして、私は反則負け…。

負けは負け。

だけど内心は、結果として反則という味噌を付けたものの、
実力では決して負けていなかったという自負もあり、
連合会という名の通った団体での準優勝、
心の片隅では晴れがましく思いました。

今回の大会を振り返って考えるに、
プレッシャーや気負いもなく対戦できたのは、
あの三人組との練習の成果にほかなりません。

雪辱を果たした!
彼らに結果を連絡したら、心底喜んでくれていましたね。
東京へは飛行機で帰りましたが、迎えに行きますと言って、
彼らはわざわざ羽田まで私を迎えに来てくれました。
あの時は本当に嬉しかった。

建武館 篠田剛

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『こんちくしょうはエネルギー』75

2011-02-04

準優勝した翌年9月の全国空手道選手権大会。
会場は神戸から大阪府立体育会館に変わりました。

この年は、地元の先輩後輩が大ぜいで、
応援に駆け付けてくれることになりました。
車に乗り込んで夜通し高速道路をかっとばして、
来てくれるというのです。

格闘技の有力誌にあった「今年度各種大会の優勝者予想」のコーナー。
連合会の大会の欄には私の名前が載っていました。
準優勝だったのに私の名前。
これは“絶対に俺の実力が認められたんだ”
そう思っては、鼻高々でした。

浮かれ調子で会場入りしました。
“あいつが優勝候補だ”そう噂しているに違いない。
俺を見る目が違う、と。
一人勝手に思い込んでいました。

さて試合。
優勝候補だった私は…、
ベスト8に終わりました。
それも、駆け付けてくれた先輩後輩が体育館に到着する前に、
負けてしまったのです。
観客席で待つ私は、彼らに合わせる顔がありませんでした。

私は考えさせられました。
ちやほやされていい気になっているとしっぺ返しをくうぞ。
人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄の如しというじゃないか。
一時の幸・不幸に一喜一憂しちゃいかん。
そんな思いを至らせた3年間でしたね。

そして、私はつくづく思う。
私にとって“こんちくしょう”はエネルギーなんだな。

建武館 篠田剛

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『引退そして宗家の継承』76

2011-02-06

昭和61年から63年にかけて地元大会では負け知らずの3連覇を達成。
この年、私は研修会の師範を允許されました。
ほどなく現役引退を兄より勧められました。
考えた末、私は引退を決意しました。25歳の時でした。

優勝13回、準優勝14回、第3位5回。
これが私のトロフィーやメダルで数えるところの通算戦績でした。
反則負けは数知れず、です。

そして翌年の平成元年。
私は研修会の二代宗家に指名され、継承することになりました。
弱冠26歳。
宗家は技術の正統な後継者であります。
それのみならず会員を統率しなければなりません。

空手の歴史や会の歴史の認識、そして技術。
これらについてはその名に恥じぬ自信はありました。
しかし会員の統率については無力でした。
技術だけでは人をまとめられないことを思い知らされます。

建武館 篠田剛

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『誹謗中傷』77

2011-02-07

後継者が社長になることに賛同する者をあらかじめ取締役に選んでおく。
これは会社において後継者の地位を安定させるための手段の一つです。
しかしその賛同する者を選ぶ暇もないほどのテンポで、
事が進むとどうなるでしょう。

私は伝統ある組織において、弱冠26歳で宗家を継承することになりました。
金城裕という空手の大家の後を継ぐ。
いやこれは途轍もないことなのです。
会社でいえば平取締役が何十人抜きで、抜擢されたようなものでした。
先生のシンパや取り巻きは、
私のような若造には期待もしていなかったでしょう。
共に稽古した間柄でもありませんし、私の顔も知らない幹部もいたほどです。
だから、一時も心の休まることがなく、常に針の筵に座る気持ちでした。

さらに追い打ちをかけるように、
「宗家職を数千万円で買った」
と噂されました。
私は当初、そういった誹謗中傷に多く悩まされました。

しかし私は、ただ誠実に実直に、
自分の信念のもと毅然と振る舞っていきました。

それからというもの、少しずつ、私の周りの人に変化が表れました。
私という人間を間近で見始めた人は、
徐々に、噂の人間とは違うぞと思い始めました。
何年か過ぎ、私に賛同する人が、やっと、
ちらほら現れてくれたのでした。

その後も、根も葉もない噂は残っていました。
それでも続けてこられたのは、
私を信じてくれる兄弟子や後輩がいたからでした。
金城先生が私を宗家に指名して頂いたその期待に応えよう、
その一心からでした。

建武館 篠田剛

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『宗家、会長、そして結婚』78

2011-02-08

平成になってからいろいろな出来事がありました。
まずは平成元年に宗家の継承。
翌平成2年、研修会制作のビデオに出演します。

タイトルは「甦える伝統空手」でした。
もちろん、初めての出演です。
基本、型、組型というものを収録しています。
基本の収録が進み、「その場とび蹴り」のリハーサル中、
右ハムストリングスが肉離れになってしまい後輩にバトンタッチ。
お恥ずかしい話です。

平成6年になると研修会の三代会長を兼任します。
二代会長は私の兄でした。兄や会長就任については後述します。

人生の節目にも会いました。
その2年前の平成4年、妻勝美と結婚します。

勝美と付き合い始めたのは確か昭和59年でした。
10年ちかく付き合ってからの結婚。
じっくり付き合って互いに素の自分を見せあってから考えよう。
おそらく父を反面教師にしていたのでしょう。
父は五たび結婚、離婚を繰り返しているのですから。
慎重になるのは仕方ありません。
やはり、生まれてくる子どもが可哀相だからです。
我々兄弟は幼少のころ、とても辛く寂しい思いをしました。
そんな思いを子どもにはさせたくない。
根底にそれがあったのでしょう。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります

『指導者の苦悩と努力 上級指導員になる』79

2011-02-09

平成7年にC級スポーツ指導員養成講習会を受講しました。
講習内容はスポーツ生理学、医学、経営学、指導論…。
多岐にわたるものでした。

講習会は休めません。
たとえ親に不幸があっても免除などない厳格なものです。
8日間みっちり講習を受けたあとに資格検定試験を受けます。
私はその試験に合格しC級ライセンスを取得しました。

その6年後、
平成13年にはB級スポーツ指導員養成講習会を受けました。
80時間の講習を要しました。
これにもパスしてB級ライセンスを取得できました。

B級は現在「上級指導員」という名称になっています。
そのほか、上級救命技能や応急手当普及員認定も受けました。
この頃はいろいろな資格取得に挑戦しましたね。

これらの資格取得はとてもためになりました。
指導者は空手の技術に関しては長けています。

しかしそのほかの分野についてはどうしても疎くなります。
空手バカは私にとっては褒め言葉ですが、
世の中では世間知らずといわれます。

空手のことしかわからないと視野が狭くなって、
指導にも幅が広がりません。
その上、やはり指導者は、人としての幅も求められるでしょう。

指導者に陥りがちなのがうぬぼれからくる責任転嫁です。
道場生が上手くならないのは本人の努力が足りないからだ……
集中力がないのは親の教育が悪いからだ……

ひとのせいにすることは簡単なことです。
努力しなくて済みますから。

ですが自分の指導の努力不足を棚に上げ責任転嫁してはいけません。
何かいい方法があるはずだ。
でもどうすればいいんだろう……。
指導者としては悩みが増えてしんどいところです。

しかしそういう苦悩と努力が必ず実を結び、
深みや人柄として表れてくるでしょう。

そして、それはやがて、この人と一緒にやりたい、
と慕われる人になれるはずです。
いや必ずなれる。
そう信じてやっていくのです。

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『坂戸市民チャリティマラソン』80

2011-02-10

地元の先輩、小松ちゃん。
その小松ちゃんが
「みんなでマラソン大会に出よう!」
と言い始めました。
1997年のことでした。

この人はいろんな変化球を投げてくるからびっくりします。
だけど日頃から後輩思いの人なので、えーっと思いながらも
「わかりましたぁ!」
となります。

小松ちゃんはイベントごとが大好き。
今回の「大会に出よう!」も、走るのが好きなわけではないんですね。
こういうことを計画してはみんなで一緒に何かをやるのが好きなのです。
このマラソンでも、
1か月以上も前から公園の周りを夜ごと集まって走っていました。

開催地は埼玉県坂戸市。
坂戸市民チャリティマラソンという名称で、
初心者からベテランまで参加できます。
大人は10kmと5kmが選べます。
私は長距離は苦手なのですが、
仲間は“空手やってるからね”と特別視するのでつい
10kmを選んでいました。

遊びなのだから、無理せず楽しんで走ればいいのに。
この、無駄な強がり。
これがとんだ羽目に…

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『気を失っていたのです!』81

2011-02-11

1997年11月。
小松ちゃんの誘いに乗って坂戸市民チャリティマラソンに出場しました。

先輩後輩がぞろぞろと、朝早くに集合しました。
東武東上線の大山駅を出発して埼玉の坂戸駅に到着、
いよいよマラソンです。

スタート地点で合図を待つ間、周りに目を向けると、意外や壮年者が多い。
どう見ても私より10も20も上の人が多くいました。
私の目の前の人も50代後半くらいでした。
こんなオッチャンより遅いわけがないだろう。
見くびっていましたね。

さあスタートの合図。
みんな一斉に走り始めました。
仲間は会話をしながら楽しんでのスタート。
私は…
スタートとともに、真顔で真剣に走り始めていました。
私の目の前にいた、定年間近と思われるあのオッチャン。
そのオッチャンが思いもよらず早かったからです。
それがまたいい走りをしているんです。
ぴったりマークして走っていました。
ペース配分も考えずに…。

7キロ地点を通り越したあたり。
今までになくハア、ハア呼吸している自分に気づきました。

“もの凄くハア、ハア言ってるな”
そう思いながら走っていたのは記憶にあります。

記憶にある…

そう。
私はそのあと気を失っていたのです!

建武館 篠田剛

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『魔の7.5km地点』82

2011-02-18

10kmマラソンの話。
7kmを過ぎたところで息づかいが荒くなったと思ったら、…
……気を失っていました。

けたたましいサイレンの音で徐々に気が戻ってきました。
気が戻るにつれ体全体がもの凄く痛くなってきました。
まるで雑巾のように体をギュッと絞られたような痛みでした。

やがて目が開けられるようになると、
目の前に係員らしき人が心配そうに私をのぞいていました。

ああ、俺は倒れていたんだ。

サイレンは私を乗せる救急車だと察しがつきました。
もたもたしていたら救急車に乗せられる!
そう思って立ち上がる私を、
さっきの係員が制止しましたがその手を振り切って走り始めました。
まるで…犯人が刑事の制止を振り切って逃走するかのように!

少し経ってから、ふと足元を見るとなんと裸足でした。
おそらく長い間気を失っていて、
衣服を緩めたり靴下を脱がしたりしてくれていたんですね。
私は、倒れた地点からゴールまでおよそ2.5kmを裸足で走ることになりました。

これがとてもつらく、そして長かったなぁ……。

建武館 篠田剛

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『意地張って強がって入院に』83

2011-02-19

魔の7.5km地点。
そこからゴールまでの2.5km。
これがまたとんでもないほど長く感じました。

結論をいうとこの後、
私は無理がたたって肝臓の異常数値で一週間の入院をします。
いやあ、本当に馬鹿者でした。
私は。

倒れた時点ですでに体のどこかが悲鳴をあげていたでしょう。
そのあとも“救急車から逃げるように”走ってしまいました。

やっとの思いでゴールして、
参加賞としてミネラルウォーターとリンゴをもらいましたが、
飲んだら負けだ!なんていう、くだらない意地を張って何も飲まない。

小松ちゃんが倒れたことを心配して
「大丈夫か?」と声をかけてくれたので私は、
「大丈夫です」と強がりながらも、
まったく目の焦点が合っていませんでした。

焦点が合っていないと、具合が悪いと悟られちゃうんじゃないかと、
必死に小松ちゃんの目に焦点を合わせようとしてました。

帰りの電車でも意地張って立っていました。
馬鹿者です。

大山駅を通り過ぎて、池袋の焼き肉食べ放題で打ち上げです。
至って気分が悪いのですが…私は至って気分よく振る舞い、
いつものように平気でいます。

平気でいるもんだから、
後輩はいつものように“剛君!”と言ってビールを注ぎに来ます。

私はいつものように一気をします。
いつものように平気でいられなくて、後輩の目を盗んで。
オエ~っとトイレで吐きます。
そして何食わぬ顔をして席に戻ります。

何食わぬ顔をしているもんだから、
また後輩は“剛君!”と言ってビールを注ぎに来ます。

この繰り返しを何度したでしょう。
もう、最後の方は修行でした!
馬鹿者です。

帰宅しても立っていられず、それでもガマンしていました。
1~2日してもおさまらず、
これは普通じゃないぞと思って大学病院に行きました。
すると診察が終わるや否や車椅子が運ばれてきて乗りなさいと。

ここから一週間の入院生活がスタートしたのでした。
大馬鹿者です。

建武館 篠田剛

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『心を込めて本気で応援』84

2011-02-20

一週間の入院生活。
車椅子に乗せられてびっくりしました。

「立ち歩くのはトイレに行くときだけ。それ以外は安静にしてください」
主治医に言われてやっと、体がまずいところまできていたんだと感じました。
聞くと肝臓の数値が異常で、
私の記憶違いでなければ2ケタ高くなっていたらしいのです。

兄や家族、職場や道場関係者には迷惑がかかりました。
ただ、迷惑を顧みずに言うと、
この入院でひとりじっくりできる時間がとれました。
これは私にとって実に得るものが多かった。

あのマラソンの倒れてからの2.5kmは、
何度も弱気になって心が折れそうになりました。
「あと何キロですか…」
沿道の人に二度も三度も聞いていました。
その度に「あと○kmよ!頑張って!」という励ましの声。
この声に何度助けられたことか。

沿道の声援が奮い立たせてくれて完走できました。
この時ほど、全力で応援する意義を実感したことはありません。

道場の子どもたちには、
仲間を応援するときは心を込めて本気で応援してほしい。
そう教えようと誓ったものです。
いい経験となりました。
 

建武館 篠田剛

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『我武者羅應援團』85

2011-02-20

ところで、
みなさんは『我武者羅應援團』というグループをご存じですか。
目の前のことに必死に一生懸命がむしゃらにやる!
気合と本気の応援で世界を熱くする!という男たちの集まりです。

女房がテレビ番組『誰も知らない泣ける歌』を録画していました。
その番組で楽曲『WE ARE BEAUTIFUL』を歌っていました。
それを何気なく観たのがきっかけでした。

これがまた、いい。
おもしろい。


今を本気で生きたくて
バカなこと必死にやった
バカと言われりゃ褒め言葉

逃げたいからこそ立ち向かうんだろ?
必死で生きるんだろ?”……


彼らが歌う姿を見ては、沿道の声援を思い出しましたね。
いつか、何かの機会に彼らと会ってみたい。
そう思わせるような歌を唄う男たちなんです。

建武館 篠田剛

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『取るに足らないリベンジだけど』86

2011-02-21

後日談。

あの坂戸マラソンでの無念の気絶、そして入院。
無様に倒れてしまったし、どんな顔つきで失神していたんだろう。
そう思うと自分が情けない。
何としても再挑戦しないと気が済まない。
打ち上げのビールも焼き肉も不味かったしなぁ…。

そこで、リベンジするぞと早朝の走り込みを始めました。
もちろんこれからの指導も考えてのこともありました。
道場生からの技を受けて返せる体力と持久力を維持するためです。

そして一年後。

同じ坂戸でリベンジ、と考えていたのですが申し込みできず残念無念。
その代わり、ねりま光が丘ロードレースに参加することができました。
女房と、まだ幼い長男坊を連れてのお忍びリベンジをしたのでした。

タイムは世間並みのものでしたが“気持ちよく走る”ことができて満足。
リベンジを果たしました。

そしてもう一つのリベンジ。
それは焼き肉食べ放題。
不味くてしかたありませんでしたから。

家族三人はその足であの時と同じ池袋の焼き肉屋に向かいました。
もちろん、
おいしくビールと焼肉をいただいてリベンジ敢行です。

実に、取るに足りないリベンジ話でしたね。
だけどどんな些細なことでも、
借りを返す、雪辱を果たすというのは大事なことなんです。
何せ、リベンジするにはそれまで努力を続けなければならないのですから。

建武館 篠田剛

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『我武者羅...で学生時代を思い出す』87

2011-02-22

我武者羅應援團の話で学生時代のことをまた思い出しました。
彼らのように我々も学生服を身にまとっていました。
私の唯一の同期、嶋田も應援團のように4年間ずっと学生服を着続けました。

ただ彼らと違うのが、
嶋田の学生服は4年間一度も洗濯をしていなかったことです。
嶋田の学生服は男のにおいがプンプンしていました。

私は、というとボロボロに破れた紋付と袴でした。
時には朴歯の高下駄を履くこともありました。
今どきいない近寄りがたい風貌でした。
したがって、通学中の満員電車に二人が乗り込むと、
決まって二人の周囲がすきました。

下駄は、買ったときは黒鼻緒ですが、
それを白に替えるのがおしゃれで、学三になるとやりました。

恩慈先輩の学生マントは憧れの的でした。
そのマントは上背部に白糸で大きく“拓大”と刺繍をしているものでした。
学四になり私はそれを譲ってもらい、とても誇らしく思えました。

学生服の着用は、大学に“遊ぶために来る学生”への
アンチテーゼでもありました。
学生は学業が本分なのにすぐ遊びに行けるような服装はけしからん
という姿勢の表れでした。

ただし、それが形骸化して粗野に振る舞うだけの者もいました。
しかしそうならないようにと恩慈先輩は拓禅会の活動を通して、
行動規範を我々に守らせました。

とはいえボロボロに破れた羽織袴での往来は、
周り近所にとっては異様だったでしょうね。

建武館 篠田剛

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『ご近所迷惑と落ち葉拾い』88

2011-02-23

ボロボロに破れた羽織袴と高下駄での往来。
ご近所に迷惑をかけているんだろうなと思っていました。

冬の季節に入り、自宅の木の落ち葉が隣近所に飛びかっていました。
そこで、せめてもの償いにと、
その落ち葉を拾おうと早朝から掃き掃除をし始めました。

私はご近所に迷惑をかけている分、
努めて人の為に何かしようと思ったのでした。

建武館 篠田剛

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『得はなくても徳を積もう』89

ボロボロに破れた羽織袴。
そして高下駄がカランコロンと鳴り響く。

時代遅れの異様な格好で町内を歩く私の姿を見て、
ご近所は、さぞ迷惑な思いをしているんだろうなと思いました。
何か償いをしようと思っていました。

そんなある日の晩、拓大の帰り道。
町内の道路の真ん中で、酔って寝ている男性を見かけました。
たぶん町内の人だろう。

そう思った私は、その男性を背負って家まで連れて行くことにしました。
羽織袴の男が男性をおぶって歩く姿は何とも異様だったでしょうね。

酔いながらも、次は右、左、と聞いてたどり着いたのが、
なんと実家のすぐ近くの家でした。

私はご近所に迷惑をかけている分、
努めて人の為に何かしようと思っていました。
自分の得にならなくても徳を積もう、そう考えていました。

ちなみにその男性、そうとう泥酔していたのでしょう。
おんぶして少し歩いていたら、背中に生温かさが伝わりました。
途中で小便をしてしまったのでした。

羽織がびしょびしょになりながら、
それでも何か、晴れがましい気持ちで歩いていましたね。

建武館 篠田剛

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『桂太郎公の銅像清掃』90

2011-02-24

拓殖大学 桂太郎公掃除 拓禅会 日本空手道建武館
掃除といえばよく桂太郎公の銅像を清掃しました。
桂公は拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者でもあります。
この銅像は恩賜金拝受の名誉を記念して、
恩賜記念講堂の建設と同じく作られたものです。
家に例えるなら桂公は先祖であり、銅像は墓とでもいえるでしょう。

裸足になって、先輩、後輩とともにゴシゴシ汚れをとりました。
通りすがりの学生は不思議そうな目で見ていました。
なぜ学生がやっているのかと。
それは清掃作業員がやることだと。
私たちは、だからこそその清掃活動に誇りを持てたのでした。

この掃除を契機に、先祖の墓参りを頻繁にするようになりました。
墓掃除も億劫がることなく心清らかにできるようになりました。

先祖を敬う心を改めて感じさせ、
心を込めて無心に掃除することの素晴らしさを学びました。
とてもよい習慣づけをさせてもらいました。

建武館 篠田剛

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『自信という信念を固める』91

2011-02-25

財団法人全日本空手道連盟の公認四段位を取得することにしました。
平成10年のことです。

審査項目は型と組手です。
組手はこれまでの実績がありますので自信はありました。
しかし型は全空連が指定した型8つの中から1つを選ばなくてはなりません。
会派によって型はまるで違います。
私がいた研修会でも独自の型をやっており、
指定型は取り入れていませんでした。

したがって、一から練習しなければなりません。
当時、会長という立場におりまして、
見栄を張って今更誰にも教われませんでした。
結局、市販の型ビデオを購入して自宅で独学することにしました。
ビデオを何度も何度も巻き戻ししては動きをチェックしていましたね。

型審査は複数の審査員を前にして、
100人以上の受審者の視線を背中に感じながら一人で演技します。

チャンスは一度きり。
いったん始めればやり直しはできません。

不安に思いながらやっていては技を間違えたり忘れたりしてしまいます。
実際に、緊張のあまり後ろの正面を向いて終わってしまった人もいます。

飽きるくらいしつこく練習しなければ、
自信に満ちた型は披露できないものです。
これでもかと思うほど練習をして自信という信念を固めます。
それではじめて人前でも臆せず振る舞えるようになります。

私は現役の選手時代、
“俺の型を見よ!”
と思って演技していましたね。
そういうときはやはり優勝できました。

審査の結果は合格。
私は全空連四段を取得しました。
このあとも、五段、六段、と取るつもりでした。
しかし研修会を離れた私は、
この四段が全空連としては最後の段位となりました。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『なにか行動を起こす』92

2011-02-26

段位審査のときもそうですが、
上の立場にいると、教わるということが非常に少なくなります。
参考書を読んで独学することばかりです。
アドバイスをもらいたい!と思っても周りにはいません。
頼ることができない中で結果を出さなくてはなりません。

十代からずっと最上級者だったため、稽古相手はいつも後輩でした。
自分より強い人がいないので、技の上達は頭打ちになります。
試合に出てもいい結果が出なくなり、スランプに陥りました。

悩んでいるとき自宅のテレビを何気なく観ると、
スピードスケートの橋本聖子選手が映っていました。
たしかニュースの特番だったと思います。

橋本選手は小高い山を駆け上がり、
それはもう必死の形相で一人黙々と特訓していました。
それを観ていたら、
“女があれだけやってるんだ(失礼!)、
悩んでいたって変わらない”
と思い始めたのです。

なにか行動を起こそう。
私は無我夢中で大塚にある角海老ボクシングジムに通うことにしました。
自分の殻を破りたいという一心からのことでした。
そうこうしているうちに、
だんだんやる気と自信がとり戻ってきたのでした。
橋本聖子選手のおかげです。

なにか行動を起こそう。
この考えは非常に良かった。
なんでもいいからやってみる。
そうすればなにか活路がみえてくるものです。
失敗したって構わない、思いつきでもいい。
スランプに陥ったら、なにか行動を起こそう。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『大らかに生きる』93

2011-02-27

平成11年1月、二男が生まれました。
命名は相当悩みました。

重職にある者の必読の書といわれる佐藤一斎「重職心得箇条」。
この書にこうあります。

人物の第一等は、深沈重厚である、と。
深みがあって落ち着いていて、
厚みと重みがある人物が第一であると言っています。

そういう人は枝葉末節にこだわらない。
小さいことにこせこせしない。
常にどっしりとしています。

その人がいるだけで人の心が鎮定してしまいます。
問題があっても何となく収まってしまうのです。

こんなことから、私は
“大らかに生きる”ことの素晴らしさを覚えました。
わが息子には、そのような人物になってもらいたい。
そこで名を「大生」とつけることにしました。

あなたの周りに、苛立っている人が多くなっていませんか。
人を蔑んだり見下したりすることで、
自分を居心地良くする人いませんか。

みんな自分のことで精一杯だから、
人の気持ちを汲んであげることができないんです。
だから“私のつらい気持ちをわかって”の裏返しで、
そういう態度をとってしまうのでしょう。

こんな時代だからこそ、大らかさが必要です。
人の心を落ち着かせてくれる深沈重厚な人物が必要なのでしょう。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『一枚の折り込みチラシ』94

2011-02-28

平成14年のある日、
いつものように新聞紙の折り込みをめくっていました。
スポーツ、格闘技、健康関連のチラシをチェックするのが日課でした。
その中にオレンジワンという名のスポーツクラブのチラシがありました。
目を凝らすと“講師募集中”という文字が目に留まりました。

講師か……。

私は自分の可能性を試したかった。
居ても立ってもいられず、
私はその日のうちに問い合わせの電話を入れました。

空手の指導には自信がありました。
道場では常に指導的な立場にありましたから。
小学校の体育館でも近隣の子供たちを指導していましたし。

しかし、講師料をいただくといった、
外部からのお仕事としての経験はありませんでした。
景気が良ければ出直しがききます。
しかし当時も大変な時期でした。もし失敗したら…。

こういうときはどうしても周りは、
ネガティブな助言ばかりになってしまうものです。

「大賛成!自分を信じて思う存分チャレンジして!」と賛同すれば、
失敗したとき自分にも言った責任がふりかかるかもしれません。
否定していれば、失敗したとき、
「だからやめろと言ったでしょう」と弁明できるからです。

しかし私は幸せ者でした。
助言はいただいたものの、それはポジティブなものだったからです。
それゆえに、
失敗したとしても周りに迷惑を及ぼさないという覚悟を決めました。

一度きりの人生。
みなさんは、やりたい!と思うことに挑戦していますか?

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『いよいよ当日』95

2011-03-01

契約前に施設の運営が、
オレンジワンからコナミスポーツクラブに変わりました。

開講の話が進みました。
まずは体験してもらい、気に入れば入会という流れでやることになりました。

そして平成14年6月1日、
コナミ子供空手教室がオープンする運びとなりました。
果たして何人参加するだろう。
期待と不安でいっぱいでした。

いよいよ当日を迎えました。
教室となるスタジオで待っていると、
保護者同伴で8名の子ども達が体験に来てくれました。
嬉しかったですね。

指導は慣れているものの、やはり初めは緊張しましたね。
この日は礼法に始まり、簡単な基本をやり、ラダーをやって締めくくりました。
子ども達の反応はよく、手ごたえを感じました。
が、やはり内心は不安でした。
だけどやるだけのことはやった。
子ども達が入会するかどうかは天命を待つのみ、の心境です。

何日かしてコナミから連絡が入りました。
体験した子のうち、6名が入るというのです。
ヤッター!
電話を切って、嬉しくてたまりませんでした。

2日目、その6名のほかに体験の子一人が来ていました。
体験の子は即日入会。
晴れて7名となって建武館コナミ丸の就航です!

はじめてのことは誰もが不安です。
でも尻込みしていては何も始まらない。
とにかく失敗を恐れないことです。

まずはやってしまう。
初めてやるのだから失敗が当たり前。
失敗したら、何が悪かったか反省すればいいのです。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『コナミスポーツクラブでトライ&エラー』96

2011-03-02

コナミスポーツクラブ大山で空手を指導させていただくことになりました。
張り切って指導し始めましたが、早くも6日目からプチ悩みが出てきました。
当時の指導日誌を読み返すと…。

“やや飽きが出始めた。工夫が必要”
“ふざける子がいる。どうしたら真剣になるのか??”
“技術の差が出始めた。今後どうするか”
“工夫!工夫!”……。

とてもシンプルな悩みですが、当時の私としては大きな悩みでした。

私はいつも稽古の終わりに自分の指導ぶりを振り返ります。
記憶が鮮明なのでうまくいかなかった原因がつかめます。
原因がつかめなくても構いません。
まちがってもいいから違うやり方を試してしまいます。
そしてその日のうちに、来週はこの点を改良して指導しよう、
と決めておくのです。

このように、トライ&エラーは指導には欠かせません。
今日の自分の指導はわかりやすかっただろうかと、
自問自答していくことが必要です。

試行錯誤を重ねていくうちに、
どのタイミングで何を言うかが見えてくるものです。
呼吸というか、くぎを刺すというか。
あれをやる前にこれを言っておけばわかりやすいだろう、
というのが何となくわかってきます。

自問自答を重ねること。
子どもができないのは自分の指導力が足りないからだと謙虚に反省すること。
いい指導者になる秘訣はここらへんにもあるように思います。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『練習はやりこまないと身につかない』97

2011-03-03

平成14年6月、
8人の体験から始まったコナミスポーツクラブ大山子供空手教室。
7月になって2人が加わりました。
10月には3人も仲間入りしてくれました。
オープンして半年が経ち、
この教室は13人の子ども達で年を越すことができました。

この草創期に入会し、今なお続けてくれている子が4人もいます。
澤幡クン、大山クン、本間クン、畠山サンです。
澤幡クンは小学1年生でした。
大山クン、畠山サンは幼稚園の年長さん、
本間クンは年少さんで、本当に小さな子供でした。
今ではみんな私と変わらないくらい背が伸びて立派になりました。
本間クンはまだ小さいですが(失礼)、
本部道場小学生をけん引するエースとして活躍中です。

継続は力といいます。
三日坊主で終わったら身につきませんが、継続すれば身につきます。

小泉信三氏が
「練習をやりこまないと身につかないものが必ずある」
と言われています。
まさにその通りですね。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『自分で自分のケツを叩く』98

2011-03-04

空手は他の球技スポーツなどと違って痛くてつらいことばかりです。
ときに、なぜこんな痛い思いをしてまで、
やり続けなければいけないのかと思うこともあるでしょう。

心がみだれてナイーブになったときはこれほどつらい稽古はありません。
反対に心が躍動しているときは痛みも忘れるほど楽しくできます。
心の在りようで気持ちがこんなに変化するものは、
空手のほかにないんじゃないかと思えます。

それゆえに、環境に心が左右されたとき、
“それじゃいかん!”と自分で自分のケツを叩く。

高齢の方などが陥りがちなのが悪いスパイラルですね。
つまり、痛いから動かさない、
動かさないからよけい痛くなるという悪循環です。
おそらく、ですが、我々のような自分で自分のケツを叩く人間は、
年をとってもバカ無理をするんでしょうね。
そういう悪循環を断ち切ってくれたのが、私の場合空手でした。

さて。
コナミの子ども達が
“三日坊主で終わらなかった”“継続できた”
ということからくる自信。
これがやがてこの子達の人生の糧となると信じています。
自分に自信が持てるような子供を作っていくぞと、これからも張り切って指導していこうと思います。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『兄弟二人三脚』99

2011-03-05

平成14年は私にとってはげしくゆれ動いた年になりました。
私は当時、
研修会という由緒ある空手組織の長を務めさせていただいておりました。

過去に遡ると、
平成元年に金城裕先生が会長を退任されます。
金城先生退任を機に我々兄弟がその跡を継ぐことになりました。
行政の長として兄が二代会長に就任。
そして技術の長として私が二代宗家を襲名しました。

役割を割り振った理由は至って明瞭でした。
兄は事業をしていて人との結びつきをつける才覚に長けていたので行政つまり運営を。
私は頑固で融通がきかない職人肌でしたので技術の継承を任されました。
このようにして、兄弟二人三脚の組織運営がスタートしたのでした。

生前、おやじは事業をしていました。
しかし当時にして数億もの借金を抱えていました。
そのおやじが膵臓癌のため49歳で他界。
兄は会社を引き継がざるを得ませんでした。
少しずつ返済していったものの、
二代会長を引き受けたときも未だ借金が残っていました。

このままでいいのだろうか。
兄は悩んでいたのでしょう。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『尽きぬ悩み』100

2011-03-06

膵臓癌に侵されたおやじはまさに闘病の末、昭和57年に他界しました。
兄は学生社長になりました。

しかし気楽なぼんぼん社長にはなれません。
おやじが残した借金数億円も抱えざるを得なかったからです。
リストラの断行や幹部からの裏切りなども起きて、
精神的にとても疲弊したのもこの頃です。

それから5年が経ちました。
昭和64年のことです。
金城裕先生が会長を退任することになりました。
それを機に組織の若返りを図るというわけではありませんが、
我々兄弟が指名されたのです。

はじめは当惑しました。
私の場合、それでも、先生が指名して頂いたのだから、
その期待に応えるという一念が強かった。

しかし兄の場合は気持ちだけではどうにもならないものがありました。
社員や社員の家族を守らなければならない、という厳しい現実です。
兄は二代会長を引き受けたものの、悩みは尽きませんでした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『邪道と言われても』101

2011-03-07

兄は幹部の裏切り行為などで人間不信になるほどの辛い経験をしました。
そして事業で“どんな厳しい状況でも逃げずに立ち向かう心の大事さ”
を学びました。
いやというほど学んだこの教訓を、何かに生かせないか?

そんなところから兄は追い求める何かを模索しはじめ、
少しずつそれを形にしていきました。
時間が空いたら自ら道場に出て、夢中で組手をしていました。
殴りあっているうちに“やはりこれだ”というものに出会います。
それはキックボクシングでした。

当時、友人の紹介で知り合ったキックボクシング小国ジムの斉藤会長。
そこのプロ達の激しい練習風景を見ながら思いました。
この激しい攻撃を受ければ相当な恐怖心が起こるだろう、と。

そこで思いました。
しかしその恐怖心を克服しようとする気持ちが大事なんじゃないか。
どんなに怖くても逃げずに立ち向かい、
自分の弱い心と戦っていくことが大事なんじゃないか。


兄は決心します。
社会に出れば辛いことにぶち当たることが山ほどあります。
もし道場運営を続けるならば、社会で生き抜くためのものを教えたい。
それには邪道と言われてもいいから、
キックボクシングの技を取り入れたものを教えよう、と。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『兄の決意』102

2011-03-08

兄の決意は固かった。
断腸の思いで金城先生に会長辞任の意向を告げました。

嫌なこと、辛いことを避けて通らない。
逃げ出したくなるようなものを目の前にして、腹をくくって立ち向かう。
空手をやりながらそんな強い心を作ることができるはず。
会長の立場ではできなかった自分の思いを少しずつ形にしていきました。

兄、建武館館長は、キックボクシングの人脈を活かします。
ボクシングの経験者、学生キックを道場に招いては、
技術習得をしていきました。

また館長は、さまざまな人脈から、
日本アームレスリング連盟会長遠藤光男氏と出会います。
そしてその手腕が認められ、
東京都アームレスリング連盟会長に任命されました。
空手とアームレスリングの相性はよく、
道場生もよくウエイトトレーニングに励んでいました。

このころは旧道場と呼ばれる自宅3階にある20畳の道場でした。
その隣の小部屋にバーベルとプレスベンチ、そしてダンベルを置きました。
するとウエイトトレーニングだけやりたいという会員も増えてきました。

道場をより親しみやすくわかりやすくしたい。
そこで館長は道場の通称名を
「カラテ&アームレスリング建武館」としました。
館長の人柄もあり、さまざまな人が道場を出入りするようになり、
活気づいてきました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『人が人を呼ぶ』103

2011-03-09

人が人を呼ぶといいます。
館長が事業を営む会社に一人のアルバイターが入りました。
彼の名は安部康博。
のちにK-1ジャパングランプリに出場。
そして第2代全日本ヘビー級チャンピオンとなる男です。

安部は直接打撃をする空手の経験者でした。
しかしその時は現役を退いていました。
そんな安部に館長はキックをやってみないかと誘います。

その時点では“久しぶりに汗を流す”程度にしか考えていませんでした。
今では笑い話でいう言葉ですが、
“館長のうまい口車に乗せられて”
リングに出るようになりました。

そうこうするうち安部は平成9年、
K-1ジャパングランプリに出場する機会に恵まれ堂々第3位となります。
建武館はまさにK-1戦士を生んだ板橋初の道場となりました。

さらに安部は平成10年、11年と、3年連続K-1ジャパングランプリに出場。
そして平成14年、
ついに第2代全日本ヘビー級王者となり念願のチャンピオンになりました。

その後も、学生キックの縁で、島野智広、小松隆也が入ってきました。
平成15年には一般キックで入会した白濱卓哉、小山泰明も、
プロキックボクサーとなり活躍中です。

このように道場生達の大いなる活躍のおかげで板橋に建武館ありと、
広く世間に知らしめました。

まさに人が人を呼ぶ、でした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『もし欠点がなかったら、という考え』103

2011-08-11

人を審査する、人を評価する。
その際に心得なくてはならないこと、
それは「もし欠点がなかったならば」。

この人は、欠点もあるがいいところもいっぱいある。
もし、この欠点がなかったならば言うことのない人だ。
ということです。

いいところを見てあげようという思いがないと、
いいところは発見できません。
そもそも、いいところを見てあげようという気持ちがなければ、
こういう発想は生まれないでしょう。

こいつはこういう人間に決まっている…。
そう決めつけてしまうと、
もう固定化されて見方を変えることができなくなります。

まるで色眼鏡をかけたのと同じです。
赤色レンズならば何を見ても赤。
何をやっても悪くしか見えません。
先入観ですね。

指導者は「先入観」を捨て去ること。

そうすれば、いい面が見えてきて、
“どうにかしていい方向に持っていってやろう”
という気持ちになれるものです。

そんな気持ちになっている時は、
心がとてもゆったりしていることに気づきます。
心に余裕がないと、人のいいところなんて見られないんでしょうね。

もし欠点がなかったならば、という考えは、
美点凝視につながっているのです。

かくいう私はいつも葛藤です。
いいところを見ようとする自分と、
心がすれて色眼鏡をかけてしまう自分と。
ぶつかり合っています。

指導者はそれじゃいかん、と思いつつも。
まだまだ未熟な私です。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
財団法人日本体育協会公認上級指導員 介護予防サポーター
板橋区にある地元密着の空手道場でガマンを売る空手家
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※『空手のこころ』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『イタイ......痛いを居たいにさせてくれる道場へ』104

2011-03-10

当時、少年部は伝統派いわゆる寸止めで、
一般部は直接打撃というややこしい道場でした。
少年部は私が担当し、一般部は館長が指導しておりました。

館長の指導は単純明快で、
テクニックについてああだこうだ言う前にガツンとやろう、
という方針でした。
突き方はこうする蹴り方はああするなどといったことは細かく言いません。

だから基本はへただけど組手は強い、という者が多くいました。
心は基礎、ということで、まず強い心を基礎固めしないと、
上物のテクニックは築けないということです。

したがって組手になると結構激しくやっていましたね。
やったらやり返すという具合で、バシバシッと叩く音を響かせていました。

そんな痛くて怖いことやる道場にわざわざ入会する人間なんて、
いないだろうと思いますよね。
社会人が太ももに青あざを作るほどやってられませんから。

ですが予想に反してみな組手のあとはやり終えた充足感を感じていました。
もちろん痛いですよ。
足を引きずって歩くことしばしばでしたから。
痛いのは充足感のための代償だと納得できる者が多くいたのでしょうね。
みんなの顔はスッキリ爽やかでした。

館長の教えとして突き蹴りは坐禅の警策と同じという考えがあります。
つまり相手の弱い部分、足りない部分を、
警策の代わりに突き蹴りして高めあうということです。

それが当時の道場生に浸透していたので、
スッキリ爽やかに組手をやり終えられたのでしょう。

痛い!で終わらずに帰り際は充実感をみなぎらせて帰っていきました。
まさに、痛いけれど居たい気持ちにさせてくれる道場でした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『研修会への傾倒』105

2011-03-11

私が金城裕先生より空手を習い始めたのは高校1年生からでした。
その時金城先生は60歳。
おそらく私が最後の直弟子となるのでしょう。

その中身はとても内容が濃かった。
私は金城先生からじっくりしっかり教わり、
空手の技術をたっぷり吸収しました。
空手の歴史も学びました。

それだけでなく、精神も併せて学びました。
地方へ審査を頼まれて行くのにもかばん持ちとしてよく同行しました。
稽古を離れて先生と二人で過ごす、
プライベートな時間もたくさんありました。
先生といると、時がゆっくりと流れていくようで、
心が洗われる思いがしました。

お弟子さんの中に先生の空手の精神や技術を理解している方はいました。
しかし本当によく理解している方は多くありませんでした。
それがもどかしくて仕方ありませんでした。
なぜ私と古くからいるのにわからないのだ…
金城先生の落胆する気持ちが何となく伝わるのでした。

先生の技術と精神を正しく伝えていかなくてはならない。
それは自分の使命なのではないか。
そう思えてきたのです。

こうして私は研修会に傾倒していったのでした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『空手ノート 大切な宝物』106

2011-03-12

なぜ金城先生の空手が理解できないのか。
私はもどかしくてしかたありませんでした。

先生の技術と精神を正しく伝えていくことが自分の使命ではないか。
そう思えてなりませんでした。

私はよく、金城先生からの指導中に新たに発見したものを、
ノートに書き留めていました。

技や精神などあらゆる先生のことばの
“なるほど!”と思ったものは洩らしませんでした。

もどかしい思いをしてさらに、
“しっかり記録しなくて”はという、使命感に似た感覚をを覚えました。

稽古の最中に書けないので、
稽古が終わるや否やすっ飛んで書きに行ったものです。

先生の一言一句を聞き逃すまいとじっくり聞いて、
稽古が終わるまで忘れないようにするのが大変でした。

幸運にも私はマンツーマン指導を受けることが多く、
わかるまで聞き直すことができました。

このノートは大切な宝物になりました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『二つの空気』107

それから数年が経ち、
私は建武館少年部の指導をすることになりました。
安部康博がK-1で活躍していたころです。

当時の私は建武館の副館長であるとともに、
研修会の会長宗家でもありました。
そして会長宗家の職責を全うすることが、
何よりも優先すべき使命であると感じていました。

建武館では、兄は直接打撃の空手を教える傍ら、
私は研修会の空手を教えていたのです。
技術の長である私は異なる技を指導することが自分に許せなかったからです。

建武館では二つの空気が流れていました。
 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『焦燥感』108

2011-03-13

継承する私が誤ってしまっては、
連綿と続く空手の歴史、研修会の伝統が途絶えてしまう。
私が歴史を分断、根絶させるわけにはいかない。

金城先生はその使命を私に託したのだ。
だから今は私情を捨て、負託に応えるときだ。

そう考え、私は身を粉にして尽くしました。
しかし研修会ではひと時も心の休まることがなく、
常に針の筵に座る気持ちでした。

毎年1回開催する研修会主催の競技大会。
若造の私を援助していただく先生もいれば、
お手並み拝見とばかり高みの見物の役員先生方も。

大会終了後はいつも身も心もくたびれ果てていました。
大会会場にぽつんと残り、抜け殻のように茫然と立ちすくんでいました。

負託に応えようとする義心と、そして焦燥感。
やり切れない思いがしていたのでした。
 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『揺れ動く心』109

2011-04-01

平成14年の頃。
金城先生は空手の歴史と研修会の伝統を伝えるという使命を私に託したのだ。
だから今は私情を捨て、負託に応えるときだ。

そう考え、私は身を粉にして尽くしました。
しかしひと時も心の休まることがなく、
いつしか身も心もくたびれ果てていました。

そんな私を館長は見てくれていました。
研修会での私の立場を理解していました。
私の性格もわかっていました。
このままでは私がつぶれてしまうだろうし、
苦労が無駄に終わってしまうとわかっていました。

二人が違う方向を見ていたら前に進まない。
もし空手を続けるなら建武館でやってほしい。

建武館で一緒に空手をやることを館長は願っていました。
私は館長に、何度も何度も、研修会を辞めてくれと頼まれました。

しかし私は頑なに断り続けていました。
金城先生が描いた研修会の青写真を破り捨てることはできない、と。

だが、私の身を思う館長の言葉に私の心は揺れ動いていました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『頑なな心が』110

2011-04-02

現在もそうですが、その頃、館長は建築関係の事業をしていました。
その事業は順風満帆ではありませんでした。
むしろ大借金からのスタートでしたので台所事情は常に火の車でした。

そういう火急のときになぜ建武館に専念しないのか。
研修会も大事だろう。
しかし、身内が運営している建武館はどうなってもいいのか。
選択を迫られる毎日でした。

私は当時、少年部を指導していました。
研修会本部道場建武館として、建武館のために尽くしているではないか。
心の中に迷いがありましたが恥じることなしと、
改める気持ちはありませんでした。

そんな時、地元の後輩、本澤が現れました。
本澤は、あの除夜の蹴り(ひと・もの・こと37)というあきれた発案をした男です。
彼の出現で、私の頑なな心は徐々に変わっていきました。

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※『ひと・もの・こと』は、2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものです。したがって、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『人情の機微』111

2011-04-03

地元の後輩、本澤は運送会社を経営する苦労人。
人情の機微というものを知っている男です。

少年部は伝統派、大人は直接打撃。
私はもともと少年部だけを指導していました。
大人は館長が指導をしていました。

ある日館長より、大人の指導もやってほしいという話がありました。
しかし技術の継承を任された立場にいる私は、
大人に直接打撃の指導はできませんでした。

宗家を託された私の気持ちは誰にもわかるまい。
そう思っていました。

そんなある日、
「みんなで寸止めの試合に出ましょう!」本澤が提案します。
本澤が声をかけた有志が地元の試合に出場することになりました。

少年部しか指導していない私のもとに、
本澤らが教えを乞いに来たのです。
大人は直接打撃、という不文律を破って私の懐に飛び込んでくれました。

それから月日が経ちました。
その後もあいかわらず会社の業績は振るわず、
厳しい情勢が続いていました。
これ以上悪化すれば道場の存続すら危ぶまれます。

本澤は私を近くの酒場に誘います。
そして私に、
「月に1度、みんなで金城先生のお宅に型を習いに行きましょう」
と言うのです。
つまり、
研修会を辞めたとしても、先生と私との師弟関係は続く
ということです。

たとえそれが方便だとわかっていても、
私はそのことばに救われる思いがしました。

この一言で私の頑なな気持ちが溶け出しました。
肩の荷がふっと下りたように、
張りつめた気持ちが緩んで、思わず涙が出てしまいました。
本澤の心に触れて久しぶりに泣いてしまいました。

酒場をあとにした私は涙が止まりませんでした。
涙が止まるまでは家には帰れず、
自宅近くの駐車場に停めてある車の中で一人泣いて、
泣いて、
泣き終わってから自宅に帰りました。

そして、女房に研修会を辞める決意を話しました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『決心』112

2011-04-04

おやじに金城先生を紹介されたのが15歳の時でした。
そして、金城先生からのマンツーマン指導を命じられました。
この先生のもとで生涯やっていけよと言われたようなものでした。

まだ中学生のガキだったころは宿命など考えもしませんでした。
しかし月日が経つうちに、
そういう巡り合わせだったんだろうなと思うようになりました。
宗家を継承して更に私は生涯の空手人生を思い描くようになりました。

しかし、私は辞任という道を選びました。
それは今思えば致し方ないことでした。

研修会の会長宗家職は趣味という楽な気持ちでは務まりませんでした。
とはいえそれに割いた時間と労力に何ら報酬を得るものではありません。

研修会は技術集団という自負もあり、資金を集めるという考えは禁忌でした。
私自身も空手を生活の糧にしようとするほど、
発展、拡大する考えを持ち合わせていませんでした。

時間とお金と気を使うのならば研修会ではなく建武館に、
というのは自然な成り行きでした。

先生と出会って23年。
館長の気苦労、本澤の思い遣りで心が動き、
私はお別れする意思を固めました。
一大決心でした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

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『告白』113

2011-04-07

研修会を辞める決意を固めてまもなく、
金城先生にお手紙を差し上げました。

会社の業績が不振であることは書きました。
しかし直接打撃の空手を兄とやることになった、
ということはどうしても書けませんでした。

お会いする日が決まりました。
そして約束の日、私は平塚のご自宅に訪問しました。

空手の大家でありながら質素で落ち着いた佇まいです。
何度も訪問しているところですが、この日はとても重苦しく感じました。

趣味の茶碗やコップの陶器が並んでいる小さな応接間があります。
そこで先生とお話しすることになりました。

何から話してよいものか、とても迷っていました。
しかしどうしても言わなければならない。
思い切って、辞めることを告げました。

先生は何も言わず受け入れてくださりました。

以前、先生は私の息子が生まれたことをとても喜んでいました。
50年先を見据えなければなりませんと仰っていたことがありました。
おそらく息子の代までの青写真を思い描いていたのではないか。

それを私が断ち切ってしまった。
私はお詫びしました。
目に涙が溜まり先生の顔が見られませんでした。

帰り際に「大変でしょうが勇気男君(館長)と共に頑張ってください」
と励みの言葉を頂きました。

建武館で直接打撃の空手を続けることだけは、
とうとう言えませんでした。
それが今でも心につかえています。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『おやじの遺言』114

2011-04-09

宗家は技術の長である。
だから研修会以外の技術を教えることはできない。
教えるときは宗家を辞めるときだ。

大筋でいうとこんな感情でした。
もちろんそんな単純なものではありませんが。

金城先生の空手をするのはおやじの遺言のようなものでした。
だから、館長である兄から辞任を勧められても、
すんなり承諾できませんでした。
時には言い合いにもなりました。

それから数年が経ち会社の業績も振るわずの状態が続きました。
このまま拒み続けるのは私のわがままなのだろうか…。

勧められては悩み、悩んでは勧められしているときに、
後輩の一言で辞任を決心。

平成14年。
研修会三代会長、二代宗家を辞任。

何だかんだ言っても、最後に踏ん張って協力するのは兄弟です。
普段は兄弟喧嘩していても、
いざという時は一つになって命をかけるもの。
考えてみれば、これもおやじの遺言でした。

今は兄弟が力を合わせる時だ。
そう心に誓って、建武館でやっていくと決意しました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『心の支え』115

2011-04-12

研修会を辞任することで、
会員の皆さんには大変ご迷惑をおかけしたことでしょう。
身勝手で無責任な行動というそしりを受けるのは仕方のないことです。

しかし幸いにも、実情を知った先生方は理解してくださりました。
その後も、変わらぬお付き合いをいただいています。
年賀状のやり取りだけの先生からも、
復帰を望むお言葉が書き添えてあり心が休まり温まる思いです。

会の運営で心休む暇がなかった反面、
各支部の若いお弟子さんとの交流は励みになりました。

研修会主催の技術講習会では、私が講師役になる機会が多くありました。
そんなとき、各支部から先生方が若いお弟子さんを引き連れてきます。
お弟子さんは私の技術と人柄を間近に見て素直に敬意を表してくれて、
それが心の支えでした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『指導が生きがいに』116

心の支えと言えば、
もちろん建武館の子ども達です。

子ども達はわが子のように可愛くて、
指導の時間が何より私の生きがいとなっていました。

その建武館から巣立った教え子は数知れません。
みんな思い出深い子ばかりです。

その中から、
何人か思い出話をしましょう。
 

『里奈 動じない心』 18

『初任給でご馳走』 19

『自分のことは後回し』 20

『誠と龍真』 21

『がんばりトリオ』 22

『少年部黒帯第一号』 23

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『保護者を集めて説明会』117

2011-04-19

今は兄弟が力を合わせる時だと心に誓って、
建武館でやっていく決意をしました。

とはいえこれまで教えていた技術を否定しなければなりません。
私にとってみれば身を切るようなつらい作業でした。

考えてみるに、研修会の目的は、空手を通じて
“豊かな人間性をはぐくむ”ことにあります。

では豊かな人間性とは何でしょう。
人を尊重し思いやる心、
小さいものをかばう惻隠の情、
正義感、自立心、寛容、我慢…。

登山に登り口がいくつかあるように道順は違っても頂上は同じ。
つまりそういう人間になるための手段は変わったとしても、
目的とするところは同じです。

そう考えたとき、根本はみな同じなんだと感じて、
何か吹っ切れた思いがしました。
もちろん、そう思って自分を納得させたのも事実ですが。

金城先生に打ち明けてから一カ月が過ぎ、
ようやく心の整理がついてきました。

まずは保護者の皆さんに、
これまでの経過と今後のことをお話ししなければなりません。
説明会の日時を決めて、保護者に集まってもらいました。

説明に理解をしてくれる方は残り、
理解できない方は去っていただくことにしました。

後日、ある保護者より
「副館長(当時)は変わってしまった」と言われました。
ショックは隠せませんでしたが、これはもう仕方のないことです。

しかし、大半は理解を示していただき、
そのまま在籍することになりました。
とても嬉しくて胸をなでおろしました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『切磋琢磨とは程遠く』118

2011-04-24

平成14年に研修会会長を辞任。
当ててはならぬ、から、当てなくてはならぬ、に変わったのだから、
さぞ子ども達は戸惑ったでしょう。
指導する私も戸惑いながら手探りの状態が続きました。

戸惑いのひとつが“力加減”です。
どのくらいの力で打てばいいのか経験がないのでわかりません。
ですので、子ども達は思いっきり打っては相手を泣かし、
または怒らせていました。
道場内は徐々に和が乱れ、“強ければいい”という、
荒れた雰囲気になりつつありました。

もちろん、私も同じでした。
館長の指示で私も一般部で稽古をするようになりました。
それまでと違う技術です。
一から出直すという度量を持っていればよいのですが、
そうカッコよくいきませんでした。
副館長とはいえ“アウェー”の感覚でした。
心の中では常に「なめられてたまるか」と叫びながら打ち続けていました。
きっと、これまでの研修会で培った技術は必ず生きると証明するために、
必死だったのでしょう。

切磋琢磨とは程遠い感情でした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
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『おやじが死んだ歳までに継がす』119

2011-07-15

おやじは49で死にました。
私が高校を卒業して春休み、兄が大学2年から3年になる時でした。

兄はおやじの事業、
といっても数億の借金を抱えた会社でしたが、を継ぎました。
その会社とともに建武館をも引き継ぎました。

それから数年。
継いだ会社は潰しますが独力で新しい会社を設立しました。
もちろん、借金は途方もなく残っていますが。

道場の方も、ただ引き継いだだけではありませんでした。
自宅の屋上に建てたプレハブ小屋の小さな道場から、
区内では珍しくきれいで立派な道場に発展させました。

道場だけではありません。
キックにも参戦し、板橋で初のK-1戦士を誕生させました。
さらに、悲願のヘビー級チャンピオンにもなり、
板橋に建武館ありと世間に知らしめました。

このように兄は、会社も道場も、
まったく新しく、スケールも大きなものに作りかえたのです。
―あれから27年。

兄は48になりました。
そして、私に建武館を継がせました。

おやじが死んだ49になるまでに、建武館を引き継がせよう。
そう心に決めていたのでした。

…続く。

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財団法人日本体育協会公認上級指導員 介護予防サポーター
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『意地、ブルドーザーの如く』120

2011-07-16

意地。
当時の兄には、この二文字しかなかったのだと思います。

借金だらけの会社を立て直すために土地の売却、リストラもしました。
いつしか、取り巻きから「薄情」と言われました。

何かにつけ、先代と比べられます。
先代の方が義理人情に厚かった、と。

先代が元気な頃は左うちわで、精神的に余裕がありました。
金銭面でも仕事量でもまったく比べものになりません。

この辛い試練を、大学3年の時に味わいました。
社長業は天涯孤独なんだと、いやがうえにも思い知らされました。

ちくしょう、ふざけんじゃねえ。
意地でも大きくなってやる。大きくなって、見返してやる。

兄には、この野郎!という馬力しかありませんでした。
ここから兄は、ブルドーザーの如く、猛突進していくことになります。

…続く。

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『館長就任』121

2011-07-17

控えめでおとなしい性格だった兄は、努めて社交的な人間に変えました。
飲めない酒も、浴びるほど飲んで陽気にふるまいます。

見返してやる。
その意地もあり、5年後には独力で新しい会社を設立しました。
自宅の居間から始まり、やがて近くのマンションの一室に移転しました。

それから数年、
大風呂敷を広げて面積5倍以上のところに事務所を移転させました。
ここらへんからでしょうか。
精神的、肉体的に無理がたたって体調を崩し始めます。

おやじが死んだ歳に近づきつつある自分がいる。
兄はすでにその歳までには建武館を私に継承させることを決めていました。

会社は財務的に余裕がないのは昔と変わらない。
自分の残りの人生は、
一刻も早く会社の健全化に専念して皆に飯を食わせることだと。

2009年11月。
兄は辞任。
私が館長に就任しました。

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『バトンをつなぐまでの使命』122

2011-07-18

おやじが死んだ歳を迎えるのを前にして、兄は私に道場を譲りました。
これはまさに遺言状のようなものでした。

兄の本望は自分の子息に譲ることだったでしょう。
しかしあいにく兄は子宝に恵まれませんでした。

そこで私の息子を道場の跡取りにと考えたのだと思います。
兄にとってみれば私の息子が我が子のようなものでしたから。

しかし息子はまだ幼い。
だから一人前になるまでつなぎ役になってくれ、
ということだと思います。

もちろん、将来のことはわかりません。
誰が建武館を受け継ぐのかはわかりません。

しかし言えることは、
いずれバトンタッチするまでの間しっかり守っていくこと。
守るだけでなく、兄のように、
道場をより大きく新しく発展させるのが私の使命だということです。

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『ネガティブ助言に惑わされない』123

2011-07-19

跡継ぎが一人前になるまでのつなぎ役になる。
それが私の使命ならば、私が与えられた残余期間は10年余りです。

その頃の私はすでに60歳を迎えています。
体を張ってできるのも、あと10年くらいでしょうか。

兄は20で人生の挑戦をしました。
そして新しいことにチャレンジをしていくつもの荒波を乗り切りました。

あなたは自分のやりたいことにチャレンジしていますか?
やろうとして周囲のネガティブな助言に惑わされていませんか?

そんなネガティブ助言によってチャレンジをやめてしまうことがままあります。
だけどそれはとても残念なことです。

残りの10有余年。
兄を見習い、兄が新生建武館を作り上げたように、
私も力の限り骨身を惜しまず努力すると誓いました。

しかし、当時、就任は予想外のことでしたので戸惑うことばかりでした。
…続く。

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財団法人日本体育協会公認上級指導員 介護予防サポーター
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『初心と反省 掃除始める』124

2011-07-25

館長就任(2009年)当初は戸惑うことばかりでした。
自分自身の置かれている状況すら十分わかっていませんでした。

そんな感じでしたので、館長らしいこともできずに、
あっという間の一年が過ぎようとしていました。
何もできないことへの猛烈な内省が自分の中にありました。
あせり、というのもありました。

でも、あせってもしかたがない。
まずできることからしよう。
ならば掃除だ。
掃除ならすぐにでもできる。

どんなところでも、会社だろうがスーパーだろうが、
開館前の掃除はしますね。
それと同じです。
道場を利用する方が来る前に掃除して整理整頓しておきます。
とても当たり前なことです。

そもそも道場はいつもきれいにしておくべきでものです。
それに、上に立つとふんぞり返って威張り、
掃除は下の者がすることなどと思い上がってしまいます。

そこで私は初心に帰り、自ら掃除をすることに決めました。
初日は館長に就任した日、11月24日から始めることにしました。

まずは道場の床を掃きます。
けっこう塵が集まりますのでやりがいがあります。

そして道場周辺の道路の吸い殻などのゴミを拾いました。
近隣には気合の声でご迷惑をおかけしてますから。

小さい頃、おやじから
「玄関はその家の主の顔だから汚したり靴が乱れたりしてはいけない」
と教わりました。
その言葉はいつも脳裏にあったので、
玄関(出入り口)の汚れ乱れは気に留めて掃除しました。

おわりに榊に水をやり、神棚に拝礼して掃除を終えます。
拝礼の時に心で願って締めくくります。
“今日一日、事故や怪我がなく、道場が発展しますように”と。

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『館長就任2年を迎え』125

2011-11-24

館長となって2年を迎えました。
振り返ると不況が続き、大震災というとても悲しい出来事もあり、
辛さからなかなか抜け出せません。

そういう中で道場が果たす役割はとても大きく、
世に求められているものだと実感する一年でもありました。

道場生が心身ともに強くなると同時に、道場に来れば元気になる。
いつでも来たくなるような厳しくも心あたたまる第二の我が家。
そのような存在となることが大事なんだと思う自分に、
間違いはないと確信できました。

小さい子からお年寄りまで、気兼ねなく通ってもらいたい。
家庭の経済に左右されることなく、
長く、永く生涯に渡って通ってもらいたい。
いつもそう思っています。

道場の自慢。
それは熱意ある指導と、完備された設備です。

子どもの場合、曜日の自由選択制にしました。
塾や他の習い事も大事なので、
両立できるように考慮したい。
文武両道です。

低料金も自慢といえるでしょうか。
不況困憊は如何ともしがたい事実です。
そのためにも、家族の負担を考え、
誰もが入会できるようなるべく低料金に設定しています。

確かに道場として望ましい料金もあります。
しかしそれよりも保護者が支払い続けられる会費にする。

空手は人格をみがく道なので、
道半ばにして辞めることになってもらいたくありません。
ですので、生涯に渡って努力を続けてほしいのです。

とはいえ道場を運営するには多大な費用と労力がかかります。
そこで道場生からの会費だけで成り立たない部分を、
多くの企業や個人からの支援を得るという考えです。

最近、ウィキペディアを開くと
“創設者ジミー・ウェールズからのお願い”が出てきます。
読んでみると、私の目指している方向に似ていると感じました。
それに、近頃、ファンドレイジングという言葉を耳にすることがあります。
その考えは何となく近いところがありますね。

アホなこと言うなと言われそうですが、
後援会など運営基盤ができたら会費を安くしたいと思っています。
それはいつになったら実現するのやら…。
アホな館長の格闘と悶絶が続きそうです。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
財団法人日本体育協会公認上級指導員
介護予防サポーター こころの健康サポーター
板橋区にある地元密着の空手道場で“ガマンを売る空手家”
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『初めての富士登山』126

2011-06-07

建武館の子ども達に日本一を経験させたい。
それなら富士登山だ。

すこぶる単純明快な発想でした。
その目的は、矜持。

実は私、登山経験がありません。
当然、富士山に登ったことなどありません。

よそ様の子を預かるのなら、
まずはどんなものか自分自身が体験しなければ。

そこで私は単独、富士登山することにしました。
1998(平成10)年9月、34歳のときでした。

さて五合目から出発した私。
独りなものですから会話することもありません。
景色なども見ず、ただ黙々と登ります。

後ろからザクッザクッと足音が近づきます。
馬鹿な私はこんな時も
“負けてたまるか”
と追い抜かされないようにピッチを速めます。

どんな時も負けず嫌いが出ます。
ほんとうに、自分でも呆れてしまいます。

やはりというか、まだ日が昇らぬ薄暗い時間に富士山頂に到着しました。
あれだけハイペースで登ったのだから早く着くのは当たり前です。

しかしこれが高山病にかかる原因となりました。
山頂では頭痛と吐き気で立っていられず横になっていました。

なかなか明るくならないと思ったら、
天候は雨こそ降らないが暴風で横殴りの砂嵐。

ご来光も仰げず、高山病で気分もすぐれず、
おまけにカメラが砂嵐で壊れ、帰宅後に女房にどやされました。
踏んだり蹴ったりの散々な富士登山でした。

だけど、帰りの車中、高速道路から見えた富士山。
車中からは山頂の風景は肉眼では見えないけれど、見えるようで。
あの山頂に登ったんだなぁ、と、しみじみ感動しました。

よし、絶対に子どもと登るぞ。
そして「あそこまで登ったんだよなぁ!」と見つめ合うんだ!

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『長男と日本一の山』127

2011-06-08

その頃は仕事が不順で、しかも研修会の辞任などがあった時期でした。
建武館の子ども達との富士登山の計画はなかなか立てられませんでした。

ある日、登山経験の豊富な人から
「小学4年生になれば富士登山ができる」と聞きました。
この言葉で、私の基準が「富士登山は小学4年生から」と定まりました。

私の長男が4年生になった時に、
まだ道場行事としての富士登山が難しいなら2人きりで登ろう。
そういう経験は親が仕向けるからこそできる。
いい経験をさせてあげたい。
親心が出ました。

2006(平成18)年。
いよいよ長男が4年生になりました。

登りたいか?と聞くと、登りたい!と元気よく返ってきました。
よし、日本一の山に登ろう!

初めての経験で多少の不安はあるけれど、
体力はあるし頑張り屋なので大丈夫だろう。
大変かもしれないけれど貴重な体験だからと二人で行くことにしました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『父子二人っきりの旅路』128

ところで長男の名は拓海といいます。
私が拓殖大学出身であったこともその名の由来でもありました。

“開拓”や“海外雄飛”つまり世界の人達と交流のもてる人になれ!
というのがその二文字を選んだ理由ではあります。

しかし、その本質は、
“たとえ厳しくともやりぬく人”
また、
“そのような人が周りに集まってくるような魅力のある人”
そんな人になってもらいたい、という願いを込めてつけました。

拓海にとって富士登山は貴重な試練となるでしょう。
が、その名前の由来の通り、厳しくてもやりぬいてほしい。

そう願いつつ、
父子二人っきりの思い出の旅路に出発することになりました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『キレイなタコ部屋』129

2011-06-09

2006(平成18)年8月。
お盆休みを利用して長男、拓海と日本一の山、富士山に登りました。

午後、五合目から出発。
高山病は辛い。拓海には私の二の舞を踏ませたくないと、
何度か途中休憩を挟みました。

夕刻に八合目の山小屋に到着。
ここで軽めの夕食と仮眠をとります。

この山小屋は私が初めて行ったときは木造でまさに“山小屋”という感じでした。
今回は改築されて小ギレイになっていました。

私のときは迷路のような廊下を歩いて小さな部屋の二段ベッドが仮眠場所でした。
大の男三人があの小さい面積で、肩をすぼめながら寝ました。

拓海にも「そんな感じだからな」と覚悟させていました。
しかし今回は小ギレイに改築されていましたので、
ゆったり眠れるだろうと秘かに期待していました。

すると案内された部屋は、まさにキレイなタコ部屋。
ぎゅうぎゅう詰めで互い違いに寝ます。
つまり顔の左右に見知らぬおやじの汗くさい足があるわけです。

反対側の私の足元にいる拓海と目配せして、
ここは広間に行って体を休めることにしました。

しかし、広間は夜中の零時になると、
山頂へ臨む集団の身支度でばたついていました。

体を休める程の時間も取れず、
我らもそろそろ行くかということで出発することにしました。

かわいそうに、途中から小雨が降り始めました
九合目あたりから拓海はだんだんと渋い顔になってきました。

拓海にとって、
疲れと、寒さと、眠気との闘いが始まったようです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『ついに、頂上へ!』130

2011-06-10

父と子、二人きりでの富士登山。
八合目の山小屋を、真夜中に出発して山頂を目指します。

8月といっても九合目あたりからは結構寒く、
防寒着なしではいられません。
仮眠もとれなかった息子、拓海にとっては、
眠気、疲れ、寒さは堪えたことでしょう。

徐々に斜面が急になり、ごつごつとした岩肌も出てきます。
時には岩をよじ登ることもあります。

拓海が立ち止まる頻度が多くなり、時々、リュックを担いであげました。
実はこのときすでに拓海は高山病の症状が出ていたようです。

少し休憩させてあげようと、岩畳に腰を下ろしました。
仰向けに寝転んで夜空を眺めると、輝く満天の星が目に飛び込んできました。
拓海は可哀そうなことにメガネを持ってくるのを忘れていて、
ぼんやりとしか見られません。
この美しい星空を見せられなかったことを悔やんでいます。

さぁ、目指すは山頂。
二人は立ち上がって、また歩き始めました。

山頂の鳥居が見えてきました。
あと少し。

拓海はというと、頭痛と吐き気で無言。
とても辛そうでした。

しかし、足を止めることなく登り続けていました。
そして、ついに、頂上へ!
念願の父子で富士登頂を成し遂げました。
 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

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『親子の会話が変わる 富士登山流子育て』131

高山病の症状はとても辛いものです。
私も経験したので拓海の気持ちがよくわかります。
拓海は下山の途中、靴擦れでかかとの皮もめくれて痛めていました。

小学4年生の息子にとってはものすごく堪えたにちがいありません。
いい経験です。

息子とこんなに長く二人きりになれたことはありませんでした。
父と子、じっくり向き合える時間が持てました。
これも富士登山ならではです。

空気が澄んだ日には板橋からも望むことができる富士山。
たまに、息子の言葉から、痛いとか、辛いとか、でてきます。

そんなとき。
遠くに霞む富士山を指さして。

あのてっぺんの、ポコッと出っ張っているところ。
あそこまで歩いて登ったんだぜ。

もう、ほかは屁でもないだろう?
うん。

こういう会話ができるようになりました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『水かぶり 親から子へ』132

2011-06-22

毎年正月のじんと底冷えのする日に、
玄関先でおやじと二人で冷水をかぶったものです。
おやじ流の教育でした。

おやじは死ぬ直前まで私を付き合わせました。
まさに、体を張って教育をしてくれました。

それだけに、『水かぶり』というものには深い思い入れがあります。
子どもができてから、その精神というものを親から子へ、
受け継がせたいと思うようになりました。

おやじとかぶったのが1月初旬でした。
冬の寒さが一番厳しい時期に入るといわれる小寒の頃にかぶっていました。
ならば小寒だ。

この次の1月から息子たちとかぶろう。
そう決めました。
息子たちを呼んで「これから水をかぶろう」。
平成20年1月6日の朝でした。

『水かぶり』
『最後の 親父との水かぶり』
『最後の 親父との水かぶり 2』


最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『息子達と初めての水かぶり』133

2011-06-23

小寒の日。
私は二人の息子を呼んで話をしました。

おれはおやじと毎年1月に、実家の玄関先で水をかぶってたんだよ。
去年までは一人でかぶっていたんだ。

これから毎年、お前たちもかぶるか?
頭の先がつんと冷えて、息が止まるくらい冷たいぞ。

それを聞いた息子たち、
どんなものかは想像つかないけれど好奇心に駆られて。
かぶる!
このようにして、伝統の習慣が子供に受け継がれることになりました。

ただ、おやじのときと決定的に違うのが、
自宅がマンションであること。
さすがに玄関先ではできません。
祖父がそうしていたように、風呂場で行うことにしました。


まずは私が手本を示します。
桶にそそいだ冷水を三度、頭からかぶります。
息が詰まりますが、何食わぬ顔で。

そして長男、次男の順でかぶりました。
二人は頭からいきなりかぶるものですから、
ヒィッと息が詰まり目玉を大きくさせていました。

体を拭いたあとの二人は、
やり終え感のあるすがすがしい顔つきでした。
彼らは彼らなりに気持ちが引き締まったんだと思います。
やってあげてよかった。

こういう体験を、道場の子ども達にもさせてあげたいなぁ。
ふと、よぎりました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『大生とオーバーナイトウォーキング』134

2011-07-01

小学4年生になったら富士山に登る。
これが篠田家のならわしとなりました。

長男拓海との富士登山から2年が経った平成20年。
今度は次男大生が小学4年生となり、富士登山する歳となりました。

子どもにとって富士登山は、
寒さ・疲れ・眠気を乗り越えるかがカギとなります。
拓海同様、大生も体力は相当なものです。
ただひとつだけ心配なのが眠気でした。

大生は小さいころから、夜遅くなると眠くて眠くて、
どうしても起きていられませんでした。
はたして、真夜中に起きて8合目の小屋を出発できるのか?
それが心配でした。

大生と話し合いました。
いつもの調子だと眠くなって頂上まで登れないぞ。
どうしても行きたいか?

うん。

だったら一度、夜中にずっと歩き通せるか試してみるか?
うん、やってみる。

このようにして、
徹夜行脚・オーバーナイトウォーキングを決行することになりました。

富士登山とまったく同じ条件で、
川越街道をただ、ひたすら、父子二人で歩き続けるのです。
…続く。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
財団法人日本体育協会公認上級指導員 介護予防サポーター
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『朝まで歩き続けることができるか』135

2011-07-02

眠らずに歩き続けることができれば、富士登山行きの切符がもらえる。
お兄ちゃんと同じように富士山に登れる。

よし、やってみる。
父と子の話し合いで、決めました。

眠気に弱いから夜通し歩けるか試す、という発想。
世間からみればバカな親子に映るでしょうね。
それを本気でやるわけですから!

ルートは川越街道。
街道という言葉が、ただ何となく歩く旅に似合っているというだけで、
選んだ理由は特にありません。

大山から、川越に向かって、ただひたすら、
父子二人で黙々と歩き続けます。
歩き続けることができるか。
ただそれだけのために。
何て単純な父子でしょう!

時は8月始めの金曜日の夜…いや日付が変わって土曜日の0時。
富士山八合目の山小屋を出発するのと同じ時刻です。

リュックには本番と同じ備品を詰め込み、もちろん登山靴も履きました。
次男坊の大生と私は、家族に見送られて家を出発しました。

幹線道路なので、車や人通りも多く、真夜中という感じはしません。
とはいえ、大生はいつもなら、もうすでに寝ている時間です。

はたして、ぐずらずに、ずっと歩き続けることはできるのか?
徹夜行脚、オーバーナイトウォーキングの始まりです。
…続く。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
財団法人日本体育協会公認上級指導員 介護予防サポーター
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『これで富士登山は大丈夫』136

2011-07-03

歩きはじめはコンビニやファストフード店が並び、
いつもの見慣れた街並みでした。
人通りも多く、まるで真夜中という雰囲気ではありません。

ところが和光市に入ったところから人の往来は減り始めました。
それとは反対にトラックの交通量がグンと増え始めました。

トラックが通り過ぎるたびに排気ガスをかぶります。
野に咲く花を眺めながらあぜ道を歩く、
というイメージとは程遠いものでした。

陸上自衛隊朝霞駐屯地を過ぎると、
ほとんど人とすれ違うことがなくなりました。
殺風景な道沿い、無味乾燥で何となく心細く感じてきたことでしょう。

途中で何度か休憩をはさみました。
女房が作ってくれたおにぎりをほおばっているうちに、
東の空が白く色づき始めました。

大生は歩いているのだけど眠くてまぶたがくっつきそうです。
眠いだろう、と聞くと、大丈夫、と答えます。

足取りはふらふらしているのですが、
しかし絶対に弱音は吐きませんでした。
この健気な姿を見て、小さいながらも頼もしく見えました。

大生はこの徹夜行脚で、
眠くても歩き続けなければいけないという大変さを体験できました。
そして富士登山はそんなに甘くないんだな、
という心構えもできたことでしょう。

これで富士登山は大丈夫。
…続く。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
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『息子と大馬鹿おやじの富士登山』137

2011-07-05

富士山に、登らぬ馬鹿に、二度登る馬鹿。
私は3度目。
大馬鹿者となりました。

次男坊の大生と、親子で交わした約束通り、富士登山を致したのです。
平成20年(2008年)8月中旬のころでした。

大生は小さい頃から眠気に弱い子でした。
それゆえ、まさに夜通し歩かなくてはならない、
富士登山を完遂できるのか心配でした。、

そこで試しに行った徹夜行脚をみごとにやってのけ、
富士登山行きの切符を手に入れました。
そしてこの日を迎えたのです。

さて八合目まで順調で、予定通り山小屋に到着しました。
ところがその後、物凄い土砂降り。
雷まで鳴って山小屋の中で話し声が聞き取りにくいほど。

我々より後から山小屋に到着した人はずぶ濡れ。
到着が大幅に遅れて日がどっぷり暮れてから、
やっとの思いで山小屋に飛び込んでくる人も。

ただ、この土砂降りで思いがけない幸運に恵まれました。
途中下山して宿泊予定者が減ったせいか、
大部屋から小部屋に移ることができたからです。

ほんの数時間ですが仮眠ができたのはラッキーでした。
もっとラッキーなのは出発時刻にはあの豪雨がピタッと止んだことです。

さあ大生と頂上に向かって出発です。
忍耐強い大生は眠いのを堪えて登り続けました。

ところが九合目を過ぎたところで、あともう少しというのに大渋滞。
可哀そうに大生は山頂でご来光を仰ぐことはできませんでした。
ご来光 大生富士登山 日本空手道建武館.jpg
しかし、その綺麗なこと。
しばし時を忘れ、二人で見とれていました。

山頂に着いた大生。
しかし顔つきを見ると辛そう…。
大生も、やっぱり高山病にかかってしまっていたのでした!

徹夜行脚の試練を経て、やっとの思いで迎えたこの日。
大生はこの経験を忘れず、
きっと大人になっても自信と誇りを抱いてくれるでしょう。
富士登山 山頂の火口をバックに大生.jpg
高山病ぎみの大生。山頂の火口をバックに踏ん張って笑顔で。


2014年には三男坊の一心が小学4年生。
私は超大馬鹿者になります。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『子供と妙な約束』138

2011-07-06

私は今、隔日で早朝に走っています。
走り始めたきっかけは、次男坊との妙な約束でした。
今から3年ほど前、新空手道交流大会という試合会場で。

優勝したら早朝ランニング。
負けたら、ではなく優勝したら、というのがミソ。

次男坊、順調に勝ち進むも4試合目の決勝戦で敗退、
優勝を逃してしまいました。

帰りの車中、“妙な”約束の話が始まりました。
大生は一言「負けたけど、走るよ」。

たぶん大生はそう言うだろうな。
そう思っていました。
この子はそういう男です。

長男の拓海も、弟が走るならと、
父子三人で走ることになりました。

近くにある医療センターの敷地を外周するとおよそ1km。
それを2周するだけ。

道のりは楽です。
それを早起きして、続ける。
その根気を養ってもらいたい、などなど、願いがあります。

この日と決めた日まで隔日で休まず走ろう、と三人で約束しました。
そして試合の翌日から、早朝ランニングの始まりです。

…続く。

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『息子との妙な約束』138

2011-07-06

私は今、隔日で早朝に走っています。
走り始めたきっかけは、次男坊との妙な約束でした。
今から3年ほど前、新空手道交流大会という試合会場で。

優勝したら早朝ランニング。
負けたら、ではなく優勝したら、というのがミソ。

次男坊、順調に勝ち進むも4試合目の決勝戦で敗退、
優勝を逃してしまいました。

帰りの車中、“妙な”約束の話が始まりました。
大生は一言「負けたけど、走るよ」。

たぶん大生はそう言うだろうな。
そう思っていました。
この子はそういう男です。

長男の拓海も、弟が走るならと、
父子三人で走ることになりました。

近くにある医療センターの敷地を外周するとおよそ1km。
それを2周するだけ。

道のりは楽です。
それを早起きして、続ける。
その根気を養ってもらいたい、などなど、願いがあります。

この日と決めた日まで隔日で休まず走ろう、と三人で約束しました。
そして試合の翌日から、早朝ランニングの始まりです。

…続く。

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『一度決めたら』139

2011-07-07

一度決めたら二度とは変えぬ。
意地をつらぬく人になれ。

美空ひばりが唄った人生一路の歌詞です。
そういう意地っ張り、最近見かけませんよね。

次男坊との妙な約束で始まった早朝ランニングは、
11月下旬にあった試合の翌日から走り始めました。
冷え込みがだんだんと増してきた頃でした。

この早朝ランニングは空手が強くなるために、
ということではありませんでした。
何事も根性でやり抜く人にという願いがありました。

美空ひばりの人生一路のように、
胸に根性の炎を抱いて決めたこの道まっしぐらに進んでほしい。

意地っ張り結構。
意地を貫く人になってもらいたいですね。
…続く。

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『私は頑固者』140

2011-07-08

たとえば冬の寒空で、雨や雪が降った日も好んで走りました。
まるで宮沢賢治の
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ…」
の世界です。

雨が降る日はガマンを鍛える格好の時です。
どうせ汗かくんだからと言って、凍える中を勇んで走ります。
雪の日も、もちろん必ず走ります。

舗道に黄色の線状ブロックがあれば、その凹凸の上を走りました。
そこを走れなんて命令しませんが、私のまねをしてついてきました。

風邪を引いてしまうんじゃないかとか、
足首を捻挫させたら可哀そうとか、そんなこと気にしません。
気にし過ぎると軟で弱くなりますから。

人が尻込みするようなことも、自分を奮い起こしてやってしまう。
そんな男にもさせたかったんです。

二人は、寝坊してあわてて走ってきて遅れて加わる日もありました。
だけどこの日まで走ろうと決めた日まで、
彼らはしっかりと走り抜きました。

その後は…
というと、今でも私一人続けています。

なぜ続けているか。
息子たちへの教育、という意識は相当強く働いています。

一度決めたら必ずやり抜く、という意地の大切さ。
誰も見ていなくてもやる、という真面目の誇らしさ。

こんなことを教えたいのです。
しかし肝心の息子たちが眠っているころに出発し、
帰ってきてもまだ眠っていますが!

続けているもう一つの理由。
それは、私の頑固な性格もあります。
私はとても頑固者ですから。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
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『心一つ 第三子のこと』141

2011-05-14

平成16(2004)年6月27日に妻勝美が第三子を無事出産致しました。
体重3,100gで長男、次男に負けず劣らず元気な男の子でした。
名前は「一心」と書いて“いつみ”と読みます。

一心とは、多くの人の心が一つになることです。
一心同体、一心不乱、一意専心、などに使われます。

この“一つ”は一丸という言葉にも使われ、
一方では戦争に巻き込む危険があると危惧する人もいます。

しかし、自分だけよければいいという、
利己的な考えが蔓延するのが今の世の中。
いよいよ心を一つにして事にあたることは時代遅れではない、
人づくりの要諦である。
そのように強く感じました。

サッカーの欧州チャンピオンズリーグで、
試合後に日の丸を掲げたインテルの長友佑都。
その日の丸にはこんなメッセージが書き込まれていました。

“どんなに離れても心は一つ。
一人じゃない。
みんながいる!
みんなで乗り越えよう!”

災害救援ボランティアの活躍を伝える新聞紙面にも大きく
「『被災者の力に』心一つ」とありました。
人のために動こう!とボランティアが、
次々に被災地に集まっていました。

この震災で“心一つ”の文字がこれまでになく多く見かけられ、
そしてとても大事であることが身に染みました。

俵万智さんが詠んでいます。
「とりかえしつかないことの第一歩
名付ければその名になるおまえ」と。

一心の命名も、決めるまで思い切り悩み迷いましたね。
名前に託した我が子への思いはとても重い。
この先、息子を名に恥じない人間に育てていかなければと、
身の引き締まる思いでした。

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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi
日本空手道建武館 館長
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『命日』142

2012-04-02

今日はおやじの命日。

おやじは強かった。
やさしかった。
いいことしか思い浮かばない。

俺はまだ、おやじには遠く及ばないけれど、頑張って子育てするよ。

今日も読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
■今、必要なのは弱者へのやさしさです。損をしても正しいことをする正義感です。

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『おやじの悔恨と情愛』143

2012-04-03

おやじは若い頃は暴れん坊でした。
家庭に入っても、
7つ上の姉貴が悪さをすると竹刀が飛んでくるようなこともありました。
ところが、
私が物心ついた頃にはまるで人が変わったように温厚になっていました。
私には、死ぬまで叩くことは一度もなく、
怒鳴ることすらなかったのでした。

しつけと称して手を挙げてしまう自分がいます。
ところがおやじは一切しなかった。
それでいて言うことを聞いてしまう魅力を感じさせるのです。
好きで好きでたまらなくさせるのです。
そこも尊敬に値するところです。

子を持つ親として感じるのですが、
おやじには悔恨の念があったのだと思います。
これまで家庭の団欒よりも仕事上での人間関係を優先させていたことを。

そこで、物心ついた私には、
親としての情愛というものを一気に注いだのです。
上の姉兄には、とても申し訳ないところではあります。

そんなおやじが49で逝きました。
12月で私も同い年になります。
年齢だけは並びますが、だけどおやじはこんなにガキではなかったなぁ。
自分の寿命を知っていたんでしょうか。
そんな、人生をぎゅっと凝縮した生き方でした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
■道場生に伝えたい“技は心に応ず”そして“拳足は警策なり”。

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『車酔い不安克服』144

2012-08-13

幼少のころの私はあまり自分に自信が持てませんでした。
だから自分の至らない部分をさらけ出すなんて、
恥ずかしくてとてもできませんでした。

だから失敗を恐れました。
失敗したらしたで仕方ないなんて、とてもとても思えませんでした。

カッコつけしい、ええかっこしいだったんです。

ところが拓殖大学の拓禅会に入るとかっこつけてなんかいられません。
むしろかっこわるいことばかりやらなければなりません。
馬鹿歌を歌ったりチンブラしたり、いろんなことやらされました。

すると、ちっぽけなプライドというのが消えていくんですね。

ある時、仲間と車で海に出かけました。
私は車酔いがはげしくて、小さい頃からそれが悩みの種でした。

車を走らせると、じわじわと唾が口の中にたまってきます。
それが車酔いのシグナルなんです。

これまでの私は唾がたまると、
“酔っちゃいけない。げろ吐いたらかっこ悪い”
こんなことばかり考えて車の中で小さく息を殺していました。

ところがどうでしょう。
拓禅会でチンブラしたりしたおかげで、
今までの篠田剛には考えられない行動をしました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
カッコ悪さをさらけ出せる奴がカッコいい
■空手の個別指導もしています。マンツーマンでじっくりやりたい方はお気軽にご相談ください。さらに、ご自宅や企業のサークル・研修会・各種イベントなど道場以外でも空手を楽しんでいただけるように出張指導もしています。道場まで通えない方や、企業イベントなどの福利厚生、クラブ活動などにご依頼ください。
あと46

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『どうだ!俺のゲロを見ろ』145

2012-08-14

車酔いの激しい私は、
車に乗り込むだけで特有の臭いに秒殺されてしまいます。
いつも窓側の席が定位置で、窓を開けてじっとしていました。

ちょっと走るだけで気持ちが悪くなって、
私は窓から顔を出してゲロを吐きます。
だから私が乗る車のドアは、いつもゲロの模様がついていました。

それがみんなに申し訳なくて、
そして恥ずかしくてしかたありませんでした。
車に乗るといつも劣等感を持つようになっていました。

ところが、です。
拓大の拓禅会に入るとバカなことばかりやらされました。
すると、くだらないプライドなんか吹き飛んでしまいました。

ゲロを吐いたからなんなの?
それがどうしたの?
しかたないじゃないか。

ゲロ吐いたからって、俺の値打ちが下がるわけでもない。
いいじゃねえか、ゲロくらい吐いたって。

仲間と車で海に出かけた時でした。
いままでなら車に酔い始めると黙りこくってしまう自分なのですが。
信号待ちで車が停車すると、
ドアを開けて外に飛び出して車の真ん前に立って。
両手を広げて仁王立ちになって。

オエ~ッ!

みんなの前で勢いよくゲロを吐いて見せたのでした。
「どうだ!俺のゲロを見ろ」と言わんばかりに。

それからですね。
ゲロを吐くことを恐れなくなったのは。
ゲロを吐くのは恥ずかしいものだ、とまったく思わなくなりました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
カッコ悪さをさらけ出せる奴がカッコいい
■平日はどうしても時間がとれない方は、東武東上線・大山駅にある「コナミスポーツクラブ大山」にお越しください。都営三田線・高島平方面にお住いの方は、新河岸にある「わかたけ第2保育園」にどうぞ。
あと45

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『バカやって開き直れた』146

2012-08-15

カッコつけしい、ええかっこしいで、
がんじがらめになっていた自分がずっといたんです。
人前でゲロを吐くのは恥ずかしいと決めつけていたんですね、私は。

でも、そうじゃないとわかってからは気持ちが解放されました。
そして人の目を気にすることのばからしさを実感しました。

吐いてしまうのは仕方ないことじゃぁないか。
悪いことしてるわけじゃないんだからな。

バカやって、いい意味で開き直りというのができるようになりました。
それからはいろんなことにも積極的にできるようになりましたね。

まぁ。
みんなの前でゲロを吐くことが、いいか悪いかは別として…!



今日は8月15日。
戦没者を追悼し、平和への誓いを新たにする日。
世界平和のための積極的に行動する決意を新たにする日です。


最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
カッコ悪さをさらけ出せる奴がカッコいい
■私は空手の指導で役に立つ財団法人日本体育協会公認上級指導員の資格を取得、また介護予防サポーター、こころの健康サポーターの講習を受けて道場生の体と心のケアに努めています。
あと44

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『クズにならずに済んだ』147

2012-09-12

私に空手がなければグレていたかもしれません。
どうしようもない人間になっていたと思います。
空手には不思議な力があるんですね。

おやじは結婚、離婚を何度も何度も繰り返し、
母親からの包み込むような愛情をもらった記憶すらなく、
家族で楽しく時を過ごす団欒という言葉はありませんでした。

そんな少年時代でも、空手だけは続けていました。
おかげで少しずつ自信と勇気が湧いてきました。

十代の頃はバカやりましたが、
だけど、くだらない、ちんけな行動はやっちゃいけない。
ただ空手が強いだけじゃだめ、
考えと行動にびしっと一本筋を通そうと思いました。

いつも前向きに生きよう。
そう思えるようになりました。

どうしようもないクズにならずに済んだのは、空手のおかげです。
だからこそ今、めいっぱい空手を教えているんですね。
空手っていいぞ、って声を大にして言えるんです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日発信していますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
■板橋税務署の近くで目にとまる“ガマン売ります”のポスター。そう、建武館はガマンを標榜しています。今、必要なのは弱者へのやさしさです。損をしても正しいことをする正義感です。
あと16

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『暴力と批判されて』148

2012-09-13

おやじがまだ生きている時だったか、もう死んでしまったあとだったか。
いつだったか空手は暴力、と批判されましてね。
あの時の感情をまだ覚えていますね。

好きなおやじがすすめた空手。
それを暴力だと批判されて、
それが悔しくて、
おやじがけなされたようで、
そうではない!という一心で、

弱きを助け、強きを挫く!
自分を捨てて人に尽くす!
義侠、任侠、男伊達!
俺は絶対認めさせるぞ!
空手のよさを認めさせるぞ!!

なんか、ものすごく燃えていましたねぇ。
その気持ちは何十年経った今も、変わってはいませんが。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日発信していますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長
■“技は心に応ず”その人の技はその人の心掛けの通りあらわれるもの。心のありようで技は一変し、強くも弱くも、善くも悪くもなるものなのです。
あと15

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『振り返って その1』149

2012-09-17

コラムを始めてから2年。
皆さんにさまざまなことをお伝えしました。

眠くて痛くてつらいのによく堪えて頑張った川越からの徹夜行脚。
正座のガマン大会もやりました。

トイレを素手で磨いたり、近隣のごみ拾いをしたり、
大寒の一番寒い日に水かぶりもしました。

道場でミットを枕に禅寺のような合宿をやって、
そのあとのバーベキューで焼き肉をむさぼるように食べていました。

大震災はつらく悲しいものでした。
ブータン国王の来日で心を洗われました。

ラグビーの精神は男らしかった。
アンパンマンだってかっこよかった。

富士登山は息子との絆を深める我が家の伝統行事となりました。
中国の轢き逃げ事件は憤りました。

協力雇用主となって知見が広がりました。
廃校再利用の提案もしました。

中学武道の必修化は武道徳であると位置づけました。
息子の中学担任だった宮崎先生の道徳にとても感銘しました。

山岡鉄舟の生き方が好きで、高歩院へ坐禅もしに行きました。
拓大の拓禅会時代は一つの本が出来上がるほど、
たくさん経験させていただきました。

マラソン大会ではバカなまねをして入院するはめになりましたが、
そのかわりいろいろなことを体験できました。

稽古で痛くて苦しくても頑張っている仲間を、
全力で応援しようと子供たちに言うようになりました。

そうそう、それで我武者羅應援團を知って、
おもしろい奴らだなと気に入ったんですよね。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『振り返って その2』150

2012-09-17

さまざまな人物がコラムに登場しました。

拓大の恩慈先輩からの影響力は計り知れず、敬うばかりです。
唯一の同期である嶋田も戦友です。

人生の節目に必ずいてくれる小松ちゃんにもお世話になりました。
亀田、本村、戸谷の3バカトリオには現役時代によくやってもらった。

村田理事長(現後援会長)の篤志に何度、救われたことか。
本澤は私を建武館に引き寄せてくれた情けの男。
重田さんはブレずにずっと道場を思ってくれました。

井口は新河岸支部を二つ返事で引き受けてくれて感謝にたえない。
村田さんもアマチュアキックに参戦しながら無償でソフトキックを指導してくれました。

安部はキック界にでかい花火を打ち上げてくれました。
島野、小松、白濱、小山はプロの道のみならず子供たちを育ててくれました。

本当にいろいろな人に登場していただきました。


そして。
コラムには政財界、芸能界、スポーツ界、歴史上の人物も登場しました。

稲盛和夫、鍵山秀三郎、藤原正彦、山口秀範…。
三浦雄一郎、野口健、北野武、星野仙一、魔裟斗、ゆず、槇原敬之…。

孔子、中村天風、安岡正篤、丸山敏雄、森信三、相田みつを…。
織田信長、徳川家康、二宮尊徳、渋沢栄一、山本五十六、松下幸之助、双葉山…。

素晴らしい人物に登場してもらいました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『振り返って その3』151

2012-09-17

金城先生との出会い。
研修会での苦悩。
そして退任、別れ。

高校1年生から金城先生に直接指導をして頂けたことは至福の喜びでした。
先生の稽古は1時間ほどですがその鍛錬方法は独特で、
一瞬たりとも気が抜けません。

ですので、ものすごく集中するため、
肉体だけでなく精神力を使い尽くします。

稽古が終わると必ず小一時間は放心状態となり、
話をすることすら億劫になりました。

大正8年生まれで私と44歳違い。
私が20歳の現役バリバリのころ先生は64歳。

私が全力で鍛眼法を挑んでも、
おでこに手を触れることができませんでした。

そのずば抜けた技は、中村孝、藤本貞治先生に次いで、
私がよく知っていると自負しています。

中途で退いた私は、
研修会からすれば裏切り者と呼ばれているかもしれません。

実際にそうですから、批判は真摯に受け止めています。
しかし、これまで先生から受けたご恩は生涯忘れません。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『振り返って その3-2』152

思えば、私生活のことまでもコラムに綴りました。
自分の生い立ちや家族のことも明かしました。

引っ込み思案でおしっこをもらしたこと。
デベソが恥ずかしくて絆創膏で隠して銭湯に入ったこと。
女房との出会いやおっかさん、そして息子のこと。

おやじの話はいっぱいしました。
離婚や結婚を繰り返したことも話しました。
おやじについてはいいことしか思い浮かべません。

空手に関係ないことばっかり。
本当に、本当に、いろんなこと話しました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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マイベストプロ東京へ登録の思いを綴った文書

2012-09-18

読売新聞を読んで自分自身もぜひ力になりたいと思いました。私は地元密着で空手道場を運営しています。プロとして誇れるものはありませんが、人と接して元気になってもらう喜びを知る者として何か人様のお役に立ちたいと常日頃から思っていました。

道場では精神的なトレーニングとして空手を習い、克己心や忍耐力を身につけて弱い自分の心に打ち勝つ努力をさせ、自分の内面を反省させます。ただ厳しさだけではなく、体を動かす喜びも味わわせることも必要です。運動すると自分に対してポジティブになれます。逃避しようという消極的な気持ちから、頑張ろうという前向きな気持ちに切り替えることができます。昨今、ニート・引きこもり・うつ症状の人が増えています。若者の無業は、人口減・超高齢社会において経済的な損失は計り知れません。

加えて、私どもの会社が協力雇用主となり刑を終えて社会に戻った人がやり直すための就労支援をするようになってからは更に「更生」という想いが強くなりました。彼らにとって、痛みを共に分かち合って生きていく仲間や居場所が必要なのではないか。我々にできることはないか…。協力雇用主となって、さらにそう思うようになってきました。
その更正の決意を支え立ち直れるように援助し健全な社会の一員にするには、
職に就いて責任のある社会生活を営み、
コミュニケーション能力を養い、
同じ過ちをしない強い芯を作ること。
このことから、我々建武館が今、何をなすべきかが見出せた気がしました。
8月(2010年当時)に自立更生促進センターが開所しますが、国だけでなく国民が「許す勇気」を持たない限りこの問題は続いてしまうでしょう。だからこそ町道場の出番だと思います。彼らに強い芯を作り人とコミュニケーションできるように自信と思いやりを作ります。そして悪事を考えることが馬鹿らしくなるほど体を動かして心も体も健全にさせます。そういう活動実績を通して、地域の理解を得るのです。
今、必要なのは弱者への優しさ、損をしても正しいことをする正義感です。
彼らの立ち直りを支え、就労の支援が必要です。これからも、私どもにしかできない社会貢献に取り組んで参りたいと思います。

空手を通じて心と体を元気にさせるという社会貢献に、ぜひ、私も仲間入りをさせていただき人様のお役に立ちたいと願っています。

日本空手道建武館 館長 篠田剛

『マイベストプロ東京に登録した動機』153

2012-09-18

読売新聞東京本社及び電通と共同で専門家相談サイト
「マイベストプロ東京」を開設!
2010年7月29日、グランドオープン!


たまたま目にした朝刊の広告。
これが、私がここに登録するきっかけとなったのでした。

“地域住民の「近くに自分の悩みを解決してくれる場所があれば…」というニーズに応える”
それがマイベストプロ東京を開設する趣旨だと記してありました。

ちょうどその頃、会社が協力雇用主となったことから、
建武館として何か人の役にたてないかと、
そういうことばかり考えていた矢先でした。

この広告には顔写真がずらっと並んで写っていました。
写真の下にさまざまな職種がありましたが、しかし空手がない。
ならば…

もう私はすぐさまマイベストプロ東京に、
その思いを綴って申し込みました。

思いを綴った文書

その後、先方から資料が届きました。
担当の方もいらして、説明を受けました。

すると、ただ在籍するだけでなく、
コラムを書き綴ることが望ましいと言うのです。
私は自慢するわけでないが、日記すら書いたことがない。
ちょっとこれは無理かな…そう思いました。

しかし“悩みを解決してくれる場所があれば…”
のことばが頭にこびりついていました。
そこで考えました。

元気にするのは体と心。
体は道場に来てもらって元気になってもらう。
ならば心はコラムを読んでもらって元気になってもらおう。

自分の綴ったもので元気になってもらえるなんて、
おこがましく考えましたが。
それでも、やってみることが大事!とにかくやるだけやってみよう!
そう決めました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。


篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『コラムで繋がった人達』154

2012-09-19

コラムのおかげでいろいろな人と繋がることができました。

ある出会いがきっかけで、
それをブログやコラムに載せたこともありました。

株式会社ナビットの社長、福井泰代さんもその一人です。
お会いしたきっかけは福井さんの講義に参加したこと。
この人の物おじしない心の強さと、
肩書きに執着しない心の広さに感銘しました。
福井さん、ありがとうございました。
いつか機会があったら息子さんと一緒に空手やりましょうね!


いわき市での災害ボランティアで知り合った人もいます。
伊藤忠男さんがその人です。
伊藤さんは江戸川区にあるスポーツ専門学校の超熱血教師。
この方は私と会うなり
「スポーツで人は変えられませんかね」と尋ねてきたんです。
スポーツの力で人を変える…。
ああ、私と夢が同じだなぁ、と共感しましたね。
伊藤さんの熱い想いを聞いて勇気をもらいました。
教育論を肴に一献したいですね。


マイベストプロ東京にはいろんなジャンルのプロがいます。
中でも格闘技やスクール・スポーツ系には興味を惹くプロの方がいました。

田口恭一さんは同じ空手なのでとても親しみがもてました。
姜昇利さんのテコンドーの美技を拝見したいと思っていました。
川口博正さんとは空手運動クラスの指導に、
ヒントをもらえるんじゃないかと思ってました。
根岸正太郎さんは物凄いですよね。
なんであんなにコラムを連発できるのかなって!
大塩直一郎さん。
あの写真はセンセーショナルでした!さすが人々から視線を集めるプロ!
お二人にはボディメイキングについて学ばせてもらいたいと思ってました。
そして横山春光さん。
トップページを開くとつい横山さんを見てしまい、イカン、イカンと。
ヨコシマな考えでなく純粋に!太極拳を習ってみたいと思いましたね。


これも何かのご縁。
いつか連絡を取り合って情報交換やら飲み会やらをやりたいですね。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『MBP登録から公開まで 陰で支えてくれた人たち』155

2012-09-20

思い起こせば、MBP東京に登録を申し出たのが2010年7月29日。
その翌日にさっそく大栁さんという担当の方が説明にいらっしゃいました。

申し出をしたものの、内心はやり切れるのか不安が募っていました。
しかし大栁さんは明るくて屈託のない感じの人で、
とても誠実に対応してくれたので、
話しを聞くうちに不安が消えていきました。

それから間もなく、MBPの事業母体にいる宮内さんとお会いしました。
宮内さんは管理画面の操作方法など、
素人の私にもわかりやすく指導してくれました。
今や全国各地を飛び歩く忙しさなので、
最近は連絡してくれなくて寂しいですねぇ!

9月に入り、プロTOPの記事取材や掲載写真を撮りに、
ライターの友清さんが来られました。
質問に答える私の会話を、実に明快にまとめあげて、
さすがプロだなと感心しました。
あの顔写真も友清さんが撮ったものです。
その日は晴天で陽がまぶしくて、
それでなくてもたれた目がよけいたれて写っていました。

『“ガマン”を売る地域密着の空手家』、
というフレーズも実はMBPが考案してくれました。
道場のポスターにある
“ガマン売ります”のことばを採り入れてくれたんですね。

公開に必要な、プロフィール、コース紹介なども入力が済んで準備完了。
いよいよ2010年9月28日に公開!
コラム第1筆もこの日に併せてスタートしました。

それから1年ほどが経ち、宮内さんが再訪してくれました。
宮内さんがまた、こういうことを言うんですよ。
「“ガマン売ります”のキャッチフレーズが社内で話題になっています」
「ブログもやらずコラムだけで固定読者がいるのはすごい」
「社内でコラムを毎日読んでいる者が2人います」
ほんとに宮内さん、喜ばせ上手なんですよね。

そして宮内さんの部下で、結婚式を挙げて間もない新婚さんの安藤君。
藤原竜也にちゃんこ料理を朝晩食べさせたような安藤君。
今月の初旬に管理画面の見方などを教えに来てくれました。
ありがとう。とても参考になりました。

このように、MBPの方々がとても熱心に、とても真摯に接してくれました。
おかげで2年間、
皆さんとこうしてWeb上でお話しすることができたのでした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。


篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『コラムの懸け橋1』156

2012-09-21

コラムはいろいろな人との懸け橋ともなりました。

あれは2011年1月でしたね。
MBPから「お問い合わせを受け付けました」とメールが届いたんです。

メールの主は同じMBPの掲載者で、大阪エリアに所属する中村さん。
私のコラムを偶然目にして読んでくれました。

そのコラムが第48話で書いた「今どきいない担任の先生」。
私の長男坊が中学2年生だったころの、
担任の先生について書いたものでした。

中村さんはそのコラム内容に共感してくれました。
何をもって人生の成功というのかを考えさせられた、
とメールにありました。

お問い合わせを受けたのはこれが初めてでした。
それだけに、このようにダイレクトに反響が返ってきたので、
素直に嬉しかったですね。

世知辛い世の中で、こんな私のコラムに感じてくれる人がいる。
コラムで心を元気にしよう、その目的がほんのちょっと、
感じ取れた瞬間でした。

『中村さんへのコラムレター』15
※中村さんは現在、MBP大阪に掲載されていないようです。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『コラムの懸け橋2』157

2012-09-22

北海道札幌市に住む冒険家ともコラムでつながりました。
その人の名はロバート・トムソンさん。
彼はギネス・ワールド・レコーズの記録保持者。
スケートボード単独走行での世界最長という記録を成し遂げた男です。

ロバートさんとはメールでやりとりしましたが、
まだお会いしたことはありません。
だけど彼の想いはその文章から何となく伝わりました。

彼は、「勇気をもって試みよう!」と言いたいのでしょう。
世の中便利になりすぎて、
勇気を持って試みる必要がなくなってきましたから。
試みた結果、もしかしたら危険に遭うかもしれないし、
損をするかもしれない。
でも、それでいいじゃない。
いいことも悪いことも起こるかもしれないけれどやってみる。
試みるということを自ら選ぼう、そう言いたいのだと思います。

そしてもう一つ言いたいこと。
勇気をもって試みると、つらくて厳しいことを経験します。
そんな時にもらう励ましのことばは何とも言えず
「人間っていいなぁ」と思わせます。
彼はそんな込み上げる熱い感情を、
いろんな人に味わってもらいたいのだと思います。

思いも寄らずギネス・ワールド・レコーズの記録保持者と知り合えました。
これもコラムでつながった、ありがたい縁です。

『メールの主に俄然、興味が湧く!』87

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『コラムの懸け橋3-1』158

2012-09-23

コラムが出張空手につながったこともありました。
専門学校の講師がコラムを読まれていて、
その学校の1日体験授業に招いてくれたのです。

体験授業をした学校は高田馬場にある
「総合学園ヒューマンアカデミー」。
そこでビジネスマナーの指導をされている、
横美恵先生が招いてくれました。

授業を終えて、先生にお礼のメールを送りました。
その返信メールに、横先生は思いもかけず、
私に気付かせてくれた言葉をいただきました。

横先生は私がなぜ一生懸命でまっすぐなんだろう…
と思い巡らしたそうです。
そして答えが見つかったと、次のように話されました。

「お父様はお若くして亡くなっていらっしゃるようですが、
そのお父様が先生の中に間違いなく生きていらっしゃるからですね。」

メールにおやじのことが出て来たものだからドキリとしました。
そして思わず目頭が熱くなりました。

これまで一生懸命さとおやじとが結びつくなんて、
考えたこともありませんでした。
だから横先生の言葉で、
あぁそうなのかもしれない、と思うようになりました。

過去に、誤解を受けたり謗られたりしたことが何度もありました。
確かにそんな時は、自分はダメな奴なのかなと、
おのれが揺れることもありました。

しかし、そのたびに、
俺は恥ずべき行動はしていない。いや、するはずがない。
だって俺はおやじの息子なんだぜ。
そう思い返しては自信を取り戻していました。

横先生が仰ったのはこれだな。
これまでずっと心の中で感じていたことを、
「おやじが俺の中で生きている」
横先生はこう言葉で表現してくれたのでした。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『コラムの懸け橋3-2』159

2012-09-23

横美恵先生とお会いしたのは、打合せと授業当日の、たった2日だけ。
まだ二度しかお会いしていない人が私を理解してくれていました。
先生には人の心根を敏感の感じ取るものをお持ちなのだと、
思わざるを得ません。

ある日、横先生と俳優の細山貴嶺さんについてお話ししたことがあります。
細山さんは小・中学校でいじめを受けて克服したそうです。

その克服の陰には中学校の先生の存在がありました。
その先生が「僕が君を守るから」と言ってくれて、
とても心強く感じたそうです。

元気を失っている時にもらうたった一言で元気になれることがあります。
そういう人がいるだけで救われる思いがしますよね。
細山さんの場合は中学校の先生でした。

先生というのは学問を教えるだけではない。
細山さんのお話は、そう再認識させてくれたのでした。

このお話を横先生にしたのは、
まさに横山先生がそうなんですよと言いたかったのです。

横先生も、絶妙なタイミングで声をかけて元気をくれました。
ヒューマンの学生さんもきっと、
授業で先生から元気をもらってるんでしょうね。

コラムを通じて先生と巡り合えたこと、とても感謝しています。
これからも教える立場の人間として、
互いに高めあう間柄になっていただければと願っています。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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『いつも先生のパワーが心の中に』160 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2012-09-24

長男の担任だった宮﨑先生が、
病魔に冒されたと知ったときはショックでした。
おやじも膵臓をやられたので、
その療養生活が厳しく苦しいことを知っています。

それだけに宮﨑先生を励ましたい、
元気になってもらいたいと痛烈に思いました。
しかし自分にできることなどなにもありません。

だけど、せめて心の支えとなれるのであれば…
その一心でコラムを書き続けました。

しかし、昨年の8月…
みんなの願いもむなしく、先生は帰らぬ人となってしまいました。

年が明けて春。
宮﨑先生の奥様からMBP東京を通じてメールが届きました。

奥様は宮﨑先生についてのコラムの存在を知って、
読んでらしたそうです。
そのお礼を伝えるメールでした。

ところがせっかく頂いたのに、
未だに返信メールを差し上げていませんでした。
何とお声をかけていいのか迷い、
ずるずると今日まできてしまったからです。
大変申し訳ありませんでした。

奥さんによると、宮﨑先生は、
教師という職業になるのが夢だったそうです。
それゆえに、本当はまだまだやりたい事が沢山あったでしょう。

しかし最後は奥さんに“悔いは無い”と話されたそうです。
最後の最後まで尊敬する人だったと、奥さんは仰っていました。

宮﨑先生、コラムは先生に届いたでしょうか。
先生のクラスを巣立った子供たちの心には、
いつも先生のパワーが宿っています!

『今どきいない担任の先生』

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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おやじが残した証となろう 161 篠田剛

2012-09-24

あの日はおやじの命日だった。

朝の9時半前。
MBP東京から問い合わせを受け付けたというメールが届いた。

メールの主は俺の弟だ。

弟はこう書いていた。
「今朝、父の戒名を唱えました」

俺はこの日のコラムにこう書いていた。
「今日はおやじの命日。おやじは強かった。やさしかった。いいことしか思い浮かばない」
これを読んで、居ても立っても居られずにメールしたんだろう。

弟はずっと俺のコラムを読んでいたんだ。
ずっと。
ありがとう。

そして、兄貴らしいことやってやれずに、すまなかった。
弟よ、決して多くを望まず、
しかし、いつまでも気位だけは高く生きていこう。

それがおやじへの鎮魂だ。
お互いに、おやじが残した証となろう。

篠田 剛

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

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『コラムのタイトル命名 みんなと一緒にカッコよく!』162 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2012-09-25

コラムにタイトルをつけようと思いました。
さあ、どんなタイトルをつけよう。

私はガキの頃から今日に至るまで、
いろんなカッコいい人と出会ってきました。
そしてそのカッコよさを私は幸運にも身近に学ぶことができました。

この“カッコいい”というのもさまざま。
彼の洋服がカッコいいとか、彼の目が素敵とか…。
みんな、誰々の何々が、です。

だけど私のいうカッコいいは、
すがた、かたちなどの見た目でないことは言うまでもありません。
その人自身の心とか生き方がカッコいいということです。

これまで出会った人たちのカッコよさを、
みんなにも知ってもらいたい。
そしてみんなと一緒にカッコいい人生を歩んでいきたい。

一度きりの人生、どうせならカッコよく生きていこうぜ。
そんなところから、この「人生、カッコよく!」は生まれました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『書き続けられたもう一つの活力源』163 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2012-09-26

コラムを書き始めたのが2010年9月28日。
そろそろ2年ですね。
毎日発信しようと心に決めて始めたら、
ほんとに一日も休まず続けてしまいました。

まるで、小学校の通知表にある欠席「0」をながめて、
「どうだ、ぼくってすごいでしょ」と自慢しているみたいですよね。
でも内心はそんな子供の気持ちです。

何でそこまで書き続けられたのか。
そのわけはとても単純です。

篠田って男はこういう奴なんだとわかってほしかったからです。
そこから、こんな奴がやっている建武館は、
どんな道場なんだろうと興味を持ってほしかったのです。

だけど…本当にそれだけなのか。
コラムを発信し続けられたその活力源はほかにないのか。

もしかしたら、その1つに“兄を越えよう”
…という私的感情も作用したのかもしれません。

館長を譲り受けたばかりの私は戸惑うことが多かった。
言う側に深い意味はないでしょうが、
前の館長はこうだったとよく言われましたね。

しかしこれは事実であってその差は歴然なので言われて当然です。
先代には先代の、俺には俺の持ち味がある、そう思えばよいのです。

ところが、
「お兄さんがいるからやっていられるんだよ」とも言われましてね。
これだけは何だか“ちくしょう”と思ってしまったんですね。

もう館長になったんだから控え目にしていないで、
俺のカラーを出しちゃおう。
そう思ったら妙に吹っ切れて、
どんどんメッセージを伝えていこうという気になりました。

走り始めに勢いがつきましたね。
そしていつの間にか走り続けていたという感じです。

それにしても毎日読んで頂いている皆さんが、
いたから続けられたというのが一番の気持ち。
何よりの活力、原動力となりました。感謝です。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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※『おれの半生』は2010年9月~2012年9月にマイベストプロ東京で公開した『館長コラム』を転載したものですので、掲載している記述は執筆時点のものであり現況とは異なることもあります。

『ご支援のお願い』164 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2012-09-27

篠田剛から皆さんへ

建武館は厳しい中にも心温まる場所であるよう努めています。
空手とキックのほかにもコースを作り、
どの世代でも誰もが馴染めるようにしました。
今では3歳の幼児からシニアまで、気兼ねなく通っています。

大事に思うことは道場生が心身ともに強くなると同時に、
道場に来れば元気になること。
すべての人がそれぞれの目的を達成できるよう考えることです。

それには道場生が通い続けられるようにすることです。
そこで、家庭の懐具合に左右されることなく通い続けられるよう、
月会費を手頃な料金に抑えています。

確かに道場として望ましい料金にすることもできます。
しかしそれよりも道場生・保護者が、
支払い続けられる会費にすることを選びました。
それは、生涯に渡って稽古を続けてほしい気持ちの表れなのです。

とはいえ私たちのような団体を取り巻く環境は、
決して良いとは言えません。
道場は子供の教育など社会的に重要な役割を果たしていることは、
認められてはいるものの、十分に評価されていないのが実情です。

これまでも個人の情熱と責任感で支えてきました。
しかし、私たちが使命を果たすためにはより多くの支えが必要です。

そこで6月、日頃お世話になっている村田昭浩さんが、
建武館後援会を発足してくださいました。

後援会では現在、私たちの活動をじっくり眺めていただき、
“建武館はなかなか頑張ってやっているぞ”
と思って支援をしてくださる方を募っています。

建武館はどんな道場でどんな考えをもって活動しているのか。
どんどん見てください。
わからないことがあればわかるまでどんどん質問してください。
そして、もし気に入ってくださったら、
ぜひともご入会をお決めください。

まずホームページをご覧ください。

ご支援のお願い

どうぞよろしくお願いします。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
コラムは毎日書いていますので、よろしければ明日もまた読んでみてください。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『幼少時代』165 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2012-09-28 9:00

おやじの事業が軌道に乗っていた頃は何不自由のない生活だった。
好きなおもちゃは買ってくれた。

大阪万博にも行かせてくれた。
スキーにも連れていってくれた。

だけど連れていってくれたのは親戚のおばさんだった。
美容院の店員さんだった。

家庭の温もりと呼べるようなものは感じなかった。
一家団欒なんてものは一切記憶にない。

心底、腹から笑ったことってあったか?
甘えて抱きついたことあったか?

なかったな。ほんとに記憶にない。
そんな幼少時代だった。


最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『継母とのけんか』166 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2012-09-28

俺は陰のある子だった。
学校から帰っても遊びにもいかない。

たった一人、二段ベットの上で動物のおもちゃを持って遊んでいた。
空想の世界に浸っていた。

ある日、一度だけ若い継母とけんかした。
取っ組み合いをしてもみくちゃにされ、髪の毛を引っ張られて、
最後はのどをヒックヒック言わせて堪え泣きした。

だけどその後に
「カツどん食べようか」と言って店屋物を頼んでくれた。

それから少しだけ、気持ちが近づいた。
親に触れたり、感情を出したりすることすらなかったから、
こんなことでも嬉しく感じたんだ。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『将来の自分』168 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2012-09-28

俺が小学校4年かな、5年かな、そんな頃。
そこらへんにあった紙に何となく将来の自分を書いた。

50歳になっても60歳になっても空手を続け、
70歳の白髪頭になっても試合に出て優勝する!


確かそんなようなこと紙に書いていた。
それを、おやじが使っていた机の引き出しにそっと置くんだ。

おやじを喜ばせたかったんだろうな。
いつまでも空手を続けるよって。


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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『もう思い残すことはない』169 人生、カッコよく!

2012-09-28

あのときは高校3年生だったかな。
おやじの会社にふらっと立ち寄ったときのこと。

俺の前でおやじが、
“ちょっとかかってきな”
という感じでさっと構えた。

なんでかは言わないけれど、
“おまえがどれだけ上達したか見てやる”
ということだとすぐにわかった。

俺も応じて構え、組手のようにパッと素早いワンツーを出した。
右の拳がおやじの鼻頭にちょっと触れたのがわかった。
当時は伝統派で寸止めだったので、我ながら巧い攻撃だった。

おやじは笑顔で片手を持ち上げるなり、
後ろを振り向いて去って行った。

“よく上達した。これでOKだ”
おやじの表情から、そんな言葉が読み取れた。

思い出すと、小学生の頃、試合前になると、
いつも俺を道場に呼んで二人で稽古をしたもんだ。
稽古といっても、会社でやったような二つ三つ、組手をやるだけだ。
いい技を出すと、今のは良かった、と言って終わるんだ。

おやじと組手で対峙したのは、会社でのあれが最後だったな。
そのあと、癌にやられて逝ってしまったんだ。

小学生の時のおやじは、
“大丈夫、おまえは明日の試合に勝てるぞ”
だった。

あの時のおやじは、
“もう思い残すことはない”
だったんだろうな。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

 

『兄貴の苦難』170 人生、カッコよく!

2012-09-28

おやじはとうとう死んじまった。
痛いなんて、一言も弱音を言わなかったなぁ。
すごいおやじだった。

だけど事業家としてはだめだった。
義理人情に厚く、人を信じて疑わない。
それがたたって取り巻きは欲の皮が張っているものばかりだった。

会社は大きな借金を残した。
学生だった兄貴は借金と一緒に引き継いだ。
それで兄貴は苦しんだ。

会社の幹部は自分さえという者ばかり。
それで借金が膨らんで当時で3億ほどにまでなった。

そんなとき、人とのつながりで仕事が見つかり、
自力で新会社を作った。
この会社の売上で、ちょっとずつ借金を減らしていけた。

兄貴は青春時代を棒に振った。
金の苦労、人の薄情さを嫌と言うほど味わった。

顔には出さないから世間にはわからない。
武士は食わねど高楊枝、とよく言っていた。

おやじが成功者だったら世間知らずなぼんぼんになっていただろう。
借金はおやじが残してくれた唯一の財産だったかもしれない。


最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『父親としてのおやじ』171 人生、カッコよく! 建武館 篠田剛

2012-09-28

おやじは事業家としては落第だった。
父親としてはどうだろう。

あんなに何度も結婚、離婚を繰り返して家庭はかえりみなかった。
子供に苦労をかけたことを挙げれば落第だ。

しかしそうじゃない。
つらいとき、くさったとき、自信を失いかけたとき、
何かにつけて、こう思ったものだ。

俺のおやじは強かった。
つらいときも弱音は一切吐かなかった。
俺はおやじの息子だ。
だから俺も絶対に乗り越えられる。

そう思わせてくれたのは、やはりおやじだ。
おやじは俺たちをしっかり育ててくれたのだ。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

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『終わりに』172 人生、カッコよく!

2012-09-28

俺はマイベストプロでこう語った。
「こんな私が、生意気にもこうして人生を説くようになったのも、空手と出会ったおかげ。自分は空手に生かされてきたと言っても過言ではありません。だからこそ、空手で得たものをできるだけ大勢の人に伝えたい。それが使命であると強く感じているんです」

本当に生意気な言い方だけど本心を述べた。

体を張ってできるのも、あと10年。
兄貴はがむしゃらに頑張って新生建武館を創り上げた。
残余期間は10年、たった一度の人生、
俺も力の限り骨身を惜しまずやっていく。
おやじが生きた証としても。

篠田 剛 SHINODA Tsuyoshi 日本空手道建武館 館長

∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥

私のコラムを読んでいただいたみなさん。
マイベストプロ東京にアップしたのが2010年9月28日でした。今日でまる2年となりました。ここで、コラムも一区切りとさせていただくことをみなさんにお伝えしなければなりません。これで終わりとかお別れではないので、また、いつか、皆さんとwebを通じて繋がりたいと願っています。

毎日読んでいただいた方が多くいらっしゃることを知って、心が熱くなりました。言葉では言い尽くせませんが感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

 

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『感謝』173 人生、カッコよく 建武館 空手という社会貢献を仕事にする男 篠田剛

2012-10-31

私のコラムをいつも読んでくださった皆さん。
本当にありがとうございました。
本日をもって閉じます。

コラムの更新を終えてからも、
なお読んでくれている方がいると知りました。

何かこう、有り難さと申し訳なさが綯い交ぜになって、
言葉に表せぬほど感謝の気持ちが溢れてきます。

私のつたないコラムに付き合っていただいた皆さん。
本当に、ありがとうございました。


これまで思うままに綴ることができました。
それはおそらく、館長として、ではなく、
だけど篠田剛だけでもなく。

『館長 篠田剛』というペンネームで、
だからこそ、
いろんなことを綴ることができたのではないかと思います。

そういう場を提供してくれたマイベストプロ東京さんに、
感謝しています。

宮内様、安藤様、武村様、そしてすべてのマイベストプロ東京の皆様。
いろいろサポートしていただいて、本当にありがとうございました。

いつかまた、再会しましょう!


日本空手道建武館 館長 篠田剛


今、必要なのは弱者へのやさしさ。
損をしても正しいことをする正義感!

 

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